なぜアメリカで医者をするの?という質問に対する私の答えは明確ではありません。ただ何となくこうなったというのが正直なところだからです。「アメリカで臨床をやるには明確な目的意識が必要だ!」と大上段に振りかぶる方もいらっしゃいます。でも私としては、「何となくアメリカに行ってみたい」「英語で医療するなんてかっこよさそうだ」「テレビドラマのERの世界にあこがれた」「日本の医局が嫌だ」などの理由でも十分チャレンジする価値はあると思います。若者の「現状を打破したい」という気持ちが、世界を変えてきた原動力だと思うからです。
さて、うんちくが長くなりました。私の場合は、とにかく医局を出たいと思ったのが理由です。大学医局というのは旧態依然とした身分制度の残るところで、どうも私には合いませんでした。閉塞感漂う医局にいると「このままでいいんだろうか」と毎日不安で仕方がありませんでした。そんなとき、高校の大先輩で同じ大学某科の教授だった方と飲む機会がありました。その教授の身の上話が、ことのほか面白く刺激的でした。「おれが若いときは、医局が大嫌いでいつか逃げ出そうと思っていたんだ。ところで当時は、教授室の掃除は医局長の仕事だった。おれが医局長のとき、教授室を掃除しているとゴミ箱の中にフンボルト留学生募集の手紙が捨ててあったのを見つけたんだ。これだッ!と思い、教授のサインを偽造して書類を申請して、ドイツ留学を大義名分に医局を逃げ出したのさ。嬉しかったねえ、そのときは。でも、帰国してみるともちろん鼻つまみ者さ。『××は手術室に入れるな』などと病院に張り紙され、たいそう嫌がらせを受けたねえ。。。」「おっさん、それほんま?」と突っ込みを入れたくなるような話でしたが、私にはとても魅力的な生き方に思えました。人生、生きるなら面白く生きてみたい。犬も歩けば棒に当たる。まずは行動してみよう!と思い立ちました。当時、私は大学院で基礎研究をかじっていたので、それを理由に研究留学に出してもらうことにしました。行き先は、ワシントン州シアトル。32歳のときでした。しかし、この動きは拙速でした。とにかく少しでも早く外に出ようとしたため、留学先の研究室の善し悪しをあまり考えなかったのです。行ってみてから分かったのですが、その研究所は研究者たちの研究意欲も生産性も非常に低いところでした。研究で一旗揚げて人生飛躍のバネにしようと思っていた私には、これは大誤算でした。自暴自棄になりかけていたとき、友人の一人が「アメリカは、研究だけではない。臨床を学ぶという手もある。アメリカの臨床は素晴らしいぞ」と助言してくれたのです(彼はその後、母校の小児科教授になりました)。単純な私は「そうか、その手があったか」と立ち直り、研究室にUSMLEの参考書を持ち込み、電気泳動の間の待ち時間に勉強し、なんとかUSMLEの全ステップに合格することができました。しかし、Step 1 76点、 Step 2CK 78点という途方もない低得点で合格したため、アメリカで臨床トレーニングのポジションを得るのは現実的とは思えませんでした(USMLEは75点以上が合格。しかし、合格しても点数が良くないと足切りにあうため、低得点では採用される可能性は低い。99点という満点近くの点数で合格する人も多い)。ですから、USMLE合格を手みやげに日本に帰るくらいの頭しかありませんでした。ただ、研究実績がまったくないまま日本に帰るのも嫌だったので、日本の教授の許可を得た上で、二年後にニューヨーク州のロチェスター大学の研究室に移ることにしました。ロチェスター大学の研究室はそれはもうシアトル時代とは比べ物にならないほど研究のアクティビティが高いところで、そこで二年間、基礎研究に没頭しました。満足のいく論文も書け、そろそろ日本帰国も視野に入ってきた頃、研究室の教授に今後どうするのかを聞かれました。「実はこの国で臨床トレーニングを受けたいんだけど」と答えたところ、「お前は実に面白いことを言うヤツだな!」と関心?されました。彼はケチで有名でしたが、お金のかからないことに関しては非常に協力的な人で、私のために地元の内科プログラムのディレクターに電話して私の研修ポジションを確保してくれたのです。こうして私は、アメリカで臨床医としての第一歩を踏み出すことができました(妻からは「こんなに悪いUSMLEの点数でアメリカの心臓病専門医になったのはあなたくらいしかいないと思うわ」と今でも褒められて?います)。つづく(かも?)。