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浅井章博

ブログについて

Born in Japanだが医者としてはMade in USA。日本とは異なるコンセプトで組み立てられた研修システムで医師となる。そんな中で、自分を成長させてくれた出会いについて一つ一つ綴っていく。

浅井章博

岐阜県産 味付けは名古屋。2003年名古屋大学医学部卒。卒業後すぐにボストンで基礎研究。NYベスイスラエル病院にて一般小児科の研修を始め、その後NYのコロンビア大学小児科に移り2010年小児科レジデント修了。シカゴのノースウェスタン大の小児消化器・肝臓移植科にて専門医修了。現在はシンシナティー小児病院で小児肝臓病をテーマにPhysician-Scientistとして臨床と研究を両立している。

アメリカは、その根本、建国の最初から多様性を前提に国を形成してきました。もちろん、最初は白人だけだったけど、どんどんいろんな人種と民族を取り込んでいきました。 それに比べて日本は、古い国です。そこに島があって、そこに人が住んでいて、言葉も通じて、生活共同体が自然に出来ていて、その上に国家が作られたというか、看板が乗っかっていったのです。 突き詰めて言えば、日本の人達は、”民族”というものすら意識する必要もない日々なわけです。外国の人と、日本の人という区別で十分なんです。 僕には、民族という言葉と概念は、プロパガンダなんじゃないかと思います。戦前の世界が帝国主義の覇権争いの渦中にあったとき、国民という枠を作り国家の枠をつくるために民族という言葉はつくられ、指導者階級になろうとした人達が叫んだ言葉だったと思います。そしてその後、戦後の日本でちょっと変わった形で使われ始めたようにおもいます。

僕は、バブル後に思春期を迎えました。日本経済が下り坂で、低迷している時期に育ちました。 舶来のものを拝んでいた人々が、”日本を見なおそう” ”日本もいいじゃん”ということを言い出しました。 価値観の反動期のようなものだと思います。日本民族という言葉がやたらと使われ、日本固有の文化や伝統というものをことさらに美化するような時代でした。 不況期には右翼系の思想が台頭するのと同じ現象はないでしょうか。

まだまだ思春期の幼い思想の僕は、一種の拒絶反応でもって、この”日本民族”という枠組みから脱出したいと思っていました。中学1年生の時にアメリカの農家にホームステイした経験が何かのきっかけになったのかもしれません。その家のホストマザーが、日系3世でした。英語しか話さない、完全なアメリカ人でした。その母系家族と過ごした時に、”アメリカ社会で生活する日本人”を目の当たりにしたからでしょうか、その後、日本で思春期を過ごすにつれ ”日本民族という言葉は幻想なのではないか?”と思うようになりました。 ”民族という20世紀の遺物をひたすら再生産しているような世界には居たくない、それが結局は対立しか生み出さないということは、もう歴史で学んだはずだ” と思っていました。 皆が同じグループに属し、自分たちが運命共同体だということを暗黙に強制し、いつのまにか中国、韓国、アメリカと自分たちは違うんだ、ということをすり込む社会がいやでした。

さらにいうと、そんなネガティブな気持ちよりも、本当は、本場アメリカでサイエンスがやりたかったのです。”サイエンスは人間の理性の、自然に対する飽くなき挑戦だ。理性をちゃんと持っていれば、民族というものが幻想であるというのが分かるはずだ。そろそろそういうものをあきらめて、もっと他にやらなきゃいけないことがあるだろう。石油の代わりになるものをみつけだし、月に基地を作り新しい資源を求め、脳の仕組みを解明し、反重力装置をつくり、安全に核融合をコントロールし、ガンをもっとコントロールし、DNAにきざまれた生命の進化の謎を解く。そういう世界で仕事がしたい!” とおもっていました。サイエンスのもつ普遍性は世界中の知性を魅了し、魅了された人達は一つの場所に集まってくるのです。国際都市に最先端の学問が集約され、そして発展することは、古代からの歴史が物語っています。反対に、多様性を受け入れない社会にサイエンスの飛躍はないのです。日本のサイエンスが遅れているわけではありません。科学技術は世界でも群を抜いています。しかし、大学時代の自分はサイエンスの”本場”で挑戦がしてみたかったのです。日本で活躍するサイエンティストの殆どの人が欧米で一旗揚げてきているし、日本人ノーベル賞受賞者のうち何人もが海外で研究しています。やはり、21世紀にサイエンスをやるならまずアメリカだと思います。

アメリカは、社会が民族に基づいて成立していません。暮らしていて、人種を意識することはあっても、民族というものを意識することはありません。現実的にはいろいろな意味で差別的社会で矛盾も多いです。でも、憲法にあげてある”平等・公平”理念だけは立派。 理性が、国家理念になり、それのもとに、人が集まっている。もちろん、民衆をまとめるために、あの手この手がつかわれ、見苦しいことも多いけど。それでも、少なくとも、”民族”という枠組みはとりはずし、多様性がこの国の根幹にあることは事実です。世界中の誰でも、この国の活動に加入することが出来るのです。 そして、21世紀もこの国が、その理想通り多様性を受け入れ続けるのなら、ここにサイエンスは発展を続けるでしょう。

今から思うに、僕はあの頃から、多民族国家というところに住んでみたかったのでしょう。そこで活発に発展を続けるサイエンスをやりたかったのでしょう。

というわけで、やっぱりまだまだアメリカにいることになりそうです。

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