Part1 からのつづき
移植医療をめぐる構造的な問題
筆者は,それは日本の医師全体の経験不足に根本的な原因があると思う。自分が医学生のときに,研修医のときに,何件の臓器移植ケースを経験したか? 自分がかかりつけ医として何人の臓器移植後の患者をもっているか? おそらく,多くの医師が経験なしと答えるだろう。日本の移植医療の件数の少なさが,医師の経験不足の原因になっているのは自明だ。だが,筆者は,その逆の命題がとても大事だと思う。医師全体の経験値が低いから,いつまでたっても自分の臓器提供に同意する日本人が増えないのだ。この悪循環,もしくはダブルバインドが問題の根本だと思う。
移植医療が欧米で普及し始めて30年以上が経つ。30年も経てば,普通の医療技術は医師の世代を超えて,一般化されるのが普通である。なぜ移植医療だけがこんなに遅れているのか? 筆者は,本当の原因は医療提供者,つまり医師たちにあるのだと思う。高度医療は科学技術であり,科学技術は知識と経験に基づいて使用者(User)がその普及を推し進めるのが普通である。患者ではない。では,一体何人の医師が移植医療の普及に力を貸したことがあるのか? 小児科医が,内科医が,死を迎えつつある自分の担当患者において,その家族に臓器提供の可能性についてアプローチしたことがあるか? ほぼ皆無だと思う。このような日本の状況で,脳死臓器提供が増える可能性はかなり悲観的だと思われる。
患者が重体になり,打つ手がなくなり死が近づいてきたとき,アメリカでは「Withdrawal」のプロセスが始まる。まず,集中治療医療(ICU)の主治医が打つ手がなくなったことを家族に告げる。その際に,キリスト教徒ならば,病院附属の教会の聖職者(Chaplain)が同席し,家族のSpiritual な側面をサポートする。ICU のケアチームに属さない,Palliative Medicine care team という独立チームが存在し,その専属の医師が家族と面会を始め,どういう看取りのプロセスを踏むかを決めていく。Palliative Teamとのセッションのなかで臓器提供の話が出され,家族が同意すれば,脳死判定の準備が進められる。多くの場合,打つ手がなくなり家族が望めば,Care withdrawal という手続きにより,点滴などの薬が止められていく。それに添って,脳死判定が始まる。脳死判定は,完全にプロトコール化され,ICU の(直接ケアに関わらなかった)主治医や神経内科の主治医が,手順書に従って淡々と進められる。そのプロセスのなかで,アメリカでは脳死判定と臓器提供の話があまり抵抗なく持ち出される。それは,我々医療従事者全員が,臓器移植の絶大な威力を身をもって体験して,その利益を確信しているからである。それは,医師だけでなく,看護師も含めたケアチーム全体の共通認識である。どこかで臓器移植を待ちわびている病気の子どもたちがいて,移植さえされればその子どもの予後が変わる,というのは誰に説明されるまでもなくわかっている。もっといえば,死にゆく子どもを持つ家族にすら,臓器移植の知識があることが多い。家族の誰かが過去に腎移植を受けている,学校の同級生が心臓移植を受けてクラスに復帰してきたことがある,同じ病院で隣の部屋の子どもは肝臓移植を受けて生存している…このような社会状況では,アメリカの小児科医が集中治療室で患児を看取るときに,臓器提供と脳死判定の話を持ち出すハードルは,日本の小児科医より数段低いのが見て取れる。移植医療を身近に感じてきていない日本の小児科ケアチームにとって,我が子の死を迎えつつある両親に臓器提供の話を持ち出すのは,相当な無理難題になってしまっている。移植医療の威力を親身に確信していないから,ハードルを越えてゆくモチベーションが上がらないのだ。
小児科医全体の移植経験値が低いから,子どもの臓器提供を促すモチベーションに欠け,さらにその結果,移植経験値は上がらない,という負の連鎖が続いている。ではどうしたらいいのか。
ラディカルな強権発動
日本に住んでいる人,一人ひとりが,移植医療を自分のこととは考えていない。この事実を変えていくしかない。負の連鎖を断ち切るには,ショック療法しかないと筆者は信じる。倫理的に,大変に問題があることは承知の上であるが,「脳死臓器提供拒否を意思表示している人は,将来自分が病気になって移植医療が必要になっても,移植医療を受けられない」というルールがあったとしたら,どう考えるだろうか。さらに言うと,小児科の問題を解決するために「その決定は自分の家族(子ども)にも連帯する」となったらどう考えるだろうか。
実はこういった強制的な法制度は,ヨーロッパに存在する。ベルギー,スペイン,そして最近ではオランダも,「すべての成人は,拒否の意思を示さない限りドナーとして登録する」という制度を取っている。つまり,Opt-Out である。脳死になった人は自動的に脳死臓器提供をするものとみなされ,嫌なら前もって拒否の意思を示しておかなければいけない。この制度を導入してから,スペインでは臓器移植が増加したのは当然のことである。日本でこのような法律が成立する可能性は低そうだし,もし仮に成立しても,今のままでは皆がこぞって拒否の意思を示してしまいそうな予感もする。だから,脳死臓器提供を拒否することの社会的意義を,身を以て感じられる制度をめざさなくてはならない。もちろん,臓器提供するかどうかは個人の意思に委ねなければいけないが,個人の意思決定のプロセスはできるだけの情報が開示された上でなされるべきである。日本の一般の人々が,移植医療について,欧米先進国のレベルの身近さで情報を与えられているとは決して言えない。なぜなら,医療従事者ですら,移植医療に親近感を持てていないのが現状だからだ。移植医療を身近に引き寄せるには,このように臓器レシピエントの立場になって考えることが必要だと,筆者は信じる。
脳死の臓器は今や最大の医療リソース
まずは,人々の認識を変えることが必要だ。移植という医療が確立した今,脳死の臓器は「社会的リソース」である。このような書き方をすると,抵抗があるかもしれないが,脳死の人から提供された臓器は,この上なく貴重な医療リソースであり,それを火葬していることは,高度医療資源を焼却していることにほかならないことはある意味で事実である。欧米ではこの概念が,少なくとも医療者と政策決定機関には,はっきりと受け入れられている。移植をコーディネートする第3者機関であるUNOS は,United Networkfor Organ Sharing(UNOS)といい,臓器は「Sharing」されるものだとはっきり標榜している。人々の間でShare されるものは,社会的リソースにほかならない。
なぜ脳死の臓器がリソースかというと,その臓器を使えば人々の病気が治る薬のような効果を持つからだ。移植すれば治る病気の数は,薬や手術で治る病気の数とほぼ同じである。もしかしたら,移植で治る病気の方が多いかもしれない(ただ,移植後の合併症の分を差し引くと,根治する疾患の数は少なくなる)。つまり,移植という技術は,圧倒的な有効性を持っている。そのことを広く社会に知らせるべきである。さらには,一般の人が罹患するような病気に対して,移植はれっきとした治療法として確立している事実を,多くの人に伝えるべきである。「あなたが病気になったときに,移植で命が助かる可能性は,実はかなり高いのです」と医師が伝えるべき場面も多い。製薬企業が100億円をかけて開発した薬よりも,脳死の人が提供してくれたたった一つの臓器の方が,命を救う力は圧倒的に強いこともあるのである。
いまこの瞬間にも,日本国民が脳死臓器提供しないという理由で,救えるはずの命が消えていっている。移植待機リストに載ったまま命を落とす人の数は増えていくのみである。上記の負の連鎖を断ち切り,脳死臓器提供を大幅に増やすには,医療者側からの抜本的な意識改革が必要である。脳死臓器をリソースと考えることに抵抗があると思う。しかし,移植を待つ患者の側に立って考えてほしい。救える命を救うことが医療者の使命ならば,すべてのリソースを使えるようにすべきである。いま,再生医療が注目され,人工臓器の実用化へ向けて研究が進められている。国民の税金からなる政府の助成金も,それらの先端研究をサポートしている。再生医療は我々の未来であり,研究は進めなければいけない。しかし,その大事な研究が行われている同じ街で,毎日貴重な医療資源がどんどん焼却されている。現状での人工バイオ臓器技術は,移植医療技術と比べるとまだまだ未熟である。小児の肝臓移植(生体肝移植)の成功率は90%以上である。まずは現在,確実な成果が得られる技術を普及させることが,命を救うことにつながる。未来への投資はもちろん大事だが,現状では移植医療を確立することの方が日本の医療の本当の課題だ。
> 筆者は,本当の原因は医療提供者,つまり医師たちにあるのだと思う。
浅井先生。全くの同感です。医学生時代に「メスよ輝け」を読んだ頃から、移植医療の日本の停滞は今や患者側より医師側の方に問題が多いと感じるようになりました。こうしたことは移植医療のみならず、私の専門とする小児神経でも多く感じます。私もある雑誌にアメリカでの小児神経教育について寄稿を考えていたところでした。