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浅井章博

ブログについて

Born in Japanだが医者としてはMade in USA。日本とは異なるコンセプトで組み立てられた研修システムで医師となる。そんな中で、自分を成長させてくれた出会いについて一つ一つ綴っていく。

浅井章博

岐阜県産 味付けは名古屋。2003年名古屋大学医学部卒。卒業後すぐにボストンで基礎研究。NYベスイスラエル病院にて一般小児科の研修を始め、その後NYのコロンビア大学小児科に移り2010年小児科レジデント修了。シカゴのノースウェスタン大の小児消化器・肝臓移植科にて専門医修了。現在はシンシナティー小児病院で小児肝臓病をテーマにPhysician-Scientistとして臨床と研究を両立している。

前回のブログにコメントを頂きました。

一市民  より:

先生ご自身は、「脳死=死」をご自身がしょって立つ近代医学の言葉と論理で説明できますか。それを「ちゃんと思考するための材料となる情報を、公平に届けるために」市民がわかるように説明できますか。米国でも日本でもそこを意図的にすっ飛ばして(なぜなら説明できないから)、命のリレーとか、愛の贈り物といったイメージだけで「臓器提供=いいもの」という世論を作っているよう思えます。日本は遅れているのではなくて、そういう「すっ飛ばし」のようなものに感づいている市民が実は多い。ある意味、「よくわからないものに対しては沈黙せざるをえない」というまともな行動だとおもうのです。

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まずはコメントを頂いたことに、感謝します。ネット上でこういった込み入ったことに対してコメントをするというのは、どうしても伝えたいことでないと書き込まないと思います。自分なりに考えたことを返信したいと思います。

まずは 「死の定義」について。仰りたいことを2通りに解釈しました。

1. 「脳死は生理学的に人の死を意味するのか? 脳死は”科学的に”心臓停止の”死”と同じとみなしていいのか?」

2.「脳死は本当に不可逆なのか? 脳死と判定したら、本当に戻ってこないのか? 技術的な不確定要素はないのか?」

1.について。 人間の死は、一連の連続した過程です。どこかにちゃんとした境界線があって、そこを超えると”死”とするのは、生理学的に無理です。例えを使うと、それは、空と海の境目みたいなものです。水平線を眺めて、空と海の境目を見ようとしてもはっきりとした線は見えませんよね? しかし、ある一定の部分からは明らかに空だし、ある一定の部分は明らかに海です。ただ、どこがはっきりした境目かはどんなに目を凝らしても、どんな計測器具を使っても、線は引けません。

それと一緒で、人の臨終では、それぞれの臓器が少しづつ機能を停止し、お互いに作用し合い、スパイラルを描きながらゆっくりと全体が機能を停止します。明らかに生きている状態から、明らかに死んでいる状態へ、はっきりとした境界を持たずに移行します。

ですから、完璧に”死”を定義するものは、生理学的には存在しません。(これはもうさんざん議論されてきたことですが)、心臓停止の”死”も、歴史的にそれがもっともらしく、万人にわかりやすかったから社会的に受け入れらてきた定義であって、科学的にはいくつもある”人の死”の一過程に過ぎません。つまりは、社会的取り決めとして、ある一定の基準が必要だったから、”心臓の停止”を採用してきたにすぎません。

現代では多くの人が、脳の機能が不可逆に停止してしまえば、それはもう人間の機能が失われたに等しいと、納得できると思います。実際にこの段階になったら、心臓停止までそんなに遠くはありません。空と海とグラデーションで言うと、ほんのちょっと色が変わったぐらいの違いです。だから、医学的な見地から言うと、脳死も死の一部です。こういった意味では、死を定義するのは、社会的な取り決めであって、近代医学(=生理学)ではない、といえます。

つづく

 

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