3月15日は米国レジデンシー・プログラムのマッチ・デイでした。感染症科をローテートしているダートマスの医学生たちも、それぞれ進路が決まったようです。また日本では卒業の季節で、フェイスブックを覗くと、母校の恩師の研究室から巣立っていく卒業生の写真がいくつもアップロードされています。
私自身も、先日、MPH(公衆衛生学修士号)取得のための最後のクラスを終え、手元には6月の卒業式(こちらではcommencement、つまり「始まり」と表現します)への招待状が届けられました。感染症科専門医の資格も取得した今、残された課題は4月後半にヴァージニア州で予定されている予防医学関連の国際学会での口頭発表と、6月が締切りになっている論文草稿の提出のみです(週1回の感染症科の外来と、週末のオンコール、そして数日のコンサルトチームでの仕事も残っていますが)。
多くの人が新しい世界に一歩を踏み出すこの時期、いつも思い出すことがあります。それについて、以前書いた文章が見つかったので、ここに掲載したいと思います。これを書いた当時、僕は研修医1年目で、ちょうどアメリカでの内科レジデンシー・ポジション獲得を目指して、僅かな望みをつなごうとしていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2006年7月
もうだいぶ時間が経ったことなので、書いておこうと思う。
今から10数年前、僕が大学に入学して2ヶ月が過ぎた頃にそれは起こって、僕は33になった今でも、時々そのことについて考える。
その日の昼過ぎ、多分2時半くらいに、僕は友人と日吉キャンパスの図書館から出て、噴水(といっても、いつも水は涸れていた)のある中庭に向かっていた。
いつもと違う様子に気がつくまでにそれほど時間はかからなかった。僕らの前には人だかりがあり、その隙間から中庭に入り込んだ警察車両の赤色灯が光って見えた。
「どうしたのですか?」
僕は少し前方にいた知らない学生に声をかけた。「自殺みたいです」と彼が一言だけ言った。
驚いて一歩前に身を乗り出したとき、僕の大腿が警察の張ったロープに触れた(僕はいつの間にか人ごみの最前列に来ていた)。そこから僕の視界の先のアスファルトに、一足の男物の靴が転がっているのが見えた。次の瞬間に気づいたのは、靴の脇に広がった、バケツの水をひっくり返したような血だまりだった。それはあまりに鮮やかな鮮血で、まるで白く泡立っているかのように見えた。
「彼」はもう救急車両によって運ばれた後で、僕が彼について知ったのは、翌日の新聞の事件欄に小さく載った記事からだった。「東大志望で一浪」「文学部に4月から通っていた」...。彼は、要するに「受験に失敗してキャンパスで身を投げた若者」であり、社会が彼について知る必要があるのは、それ以上でもそれ以下でもなかった。僕は、僕の目の前に残された彼の人間としての生々しい痕跡と、社会が必要とした彼についての余りに断片的な情報の差異に、愕然としたものだった。
そんなことがあってから過ごした大学の4年間で、僕は何人も大学受験の結果についていつまでも拘泥している人たちに出会った。酒の席で感情の抑制が緩むと、彼等はよくこう話しだした。「俺にとって今の大学はセカンド・ベストでしかない」「現役で合格していたけど、東大を狙って失敗して、結果的に今の学年になった」「帰国枠で入学したけど、アメリカの大学に行けばよかった」...。地方の大した進学校でもない公立高校出身で、高校時代は赤点(30点以下)も連発し、1年間予備校に通ってやっと大学に合格した自分にとっては、信じられないような価値観だった。一体、何が不満なのだ? 「慶」が「東」の字に変わったら、それまでの不幸な人間が幸せになれるとでも? 街で他大の学生に馬鹿にされたとでも? そんな奴には笑って哀れんでやればいいだけだろう。
そう言っていた人たちのほとんどが、不思議なくらい共通して、その後の就職活動でも自分の希望を叶えることができなかった。彼等は、マス・メディアや大手商社、大手銀行といった、世間がよいと思い込んでいる(だけかもしれない)企業を次々と受けては不合格となり、ある者は地元に帰り、ある者は不満そうにメーカーに就職していった。
自分で自分を肯定的に捉えられないような人間が、他人に自分を肯定的に捉えてもらおうというのは虫がよすぎる。人は自分の人生に起こる出来事について全てコントロールすることはできない。どんなに金があっても、知性があっても、望まない出来事は起こりうるし、避けられないこともある。出てしまった結果に対して、いつまでも不満を持ち続けているような人は、その意味で、全てが自分の思い通りになるはずだったと、勝手に思い込むような傲慢さを備えている。
僕の友人の中で、一見どこから見ても輝かしいキャリアや幸せな生活を築いている人たちでも、その過程でいろいろな迷いや、望んだこととは異なる出来事を経験している。彼等が他と違うのは、それを他人のせい、あるいは過度に自分のせいにもせず、与えられた環境や条件の中で少しでもいい結果に近づけようとしていたことだ。言い方を変えれば、自分の望んだ結果が手に入ったからといって(もちろん、それはそれで素晴らしいことだが)、それで幸せになれる保証はないし、だからこそ、それ以降の毎日を精一杯生きる意味があるということなのだろう。
僕は今でも考えている。
あの時、地元に帰っていった彼は、今、幸せだろうか。 アナウンサーになれなかった彼女は? 新聞社とテレビ局と広告会社に内定して、金融に行った彼は?
僕の前に靴だけを残して消えた彼は?