Déjà vu(既視体験)とでも言うのであろうか。ちょうど医学部6年になる前の春休み、聖路加国際病院の小児病棟を一週間見学実習させてもらう機会があった。もともと循環生理に興味をもっていたので、卒業後は内科の循環器専門医になりたいと思い、東医体後の6年の夏休みには本命の聖路加の内科病棟での実習を計画していた。その前に少しでも病棟に慣れておこうと思い、春休み一週間の同病院での見学実習をお願いした。たまたま父の知人の関係で、当時の小児科のチーフレジデントであった矢澤健司先生に連絡して受け入れを了承してもらった。大学では5年生の初めから毎週一週間ずつのポリクリ(臨床実習)で小児科は既に2クール終わっていたが、いずれも病気や病態に関する小グループセッションで実際に患者を診察することはなかった。したがってあまり小児科という分野についての具体的なイメージはなく、正直なところ、診療科としてもあまり興味を抱いていなかった。
この頃(1983年)の聖路加病院は、現在のモダンな建物ではなく、戦前からの古い由緒ある建物で、歴史の重みを感じさせる荘厳な雰囲気があった。小児病棟の患者の多くは、血液腫瘍疾患か慢性腎不全の患者であり、長期の入院闘病生活をしているこども達が多かった。当時、小児癌や白血病は、数多くの化学療法の導入でかなりの治療成績の向上が見られたが、依然完治困難な致死的な難病と考えられていた。この頃、学会でようやく長期寛解例が報告されるようになった。月曜日の朝7時半のラウンドに参加することで一週間の見学実習が始まった。帰省先の実家のあった大森海岸から築地までどうやって通ったのかという記憶は全く残っていない。
「まあ、津田君、とりあえず患者達と遊んであげてよ」、それが朝の回診後に言われた最初の指示だった。回診で聞いた病名は、全て重苦しいものばかりで、さらに「三度目の骨髄再発」だの「神経芽細胞腫Stage IVの化学療法不応例」とか「慢性腎不全の腹膜透析患者」だとか、完治する見込みのなさそうな重症例が多く、始まる前から暗い憂鬱な気分になった。それでも「慢性腎不全の患者と化学療法後で骨髄機能の回復している患者は、比較的安定しているから」と、何人か患者を受け持たせてもらった。第一日目の午前中は、受け持ち患者のチャートを読むことから始まった。当時の聖路加は小児の悪性腫瘍・白血病の治療に関して、日本でも指導的な立場にあり、医長の西村昂三先生は、日本人として戦後初めてアメリカで臨床研修を修了し、小児科および小児血液科専門医の資格(Board)を得たと言う事実を後から知らされた。細谷亮太先生には、お会いする機会がなかった。
午後に入り、最初の患者に会いに行った。小学校に入る前くらいの男の子だったと思う。小児病棟には、10人くらいの患者を収容できる大部屋が幾つかあり、中心に皆で食事をするテーブルを取り囲むようにカーテンで仕切られたベッドが配置されていた。古いアメリカの病院を彷彿とさせるデザインだった。「こんにちは」と挨拶に行くと、その子はレゴ・ブロックで一生懸命何か作っていて、完全に無視。簡単に自己紹介をした後、「何を作っているの?」と聞いても反応なし。ぎこちない時間が流れた。それでも15分くらい一緒にいただろうか。「また来るからね」と手を振って立ち去る時、その少年は少しだけ頷いたように見えた。他の患者も概して同じような反応だった。実習第一日目は、非常に疲れたような気がした。
2日目の朝の「おはよう」には、その少年ははにかむように応えてくれた。「何かゲームでもしようか?」と言ったら、「うん」と頷いてダイヤモンド・ゲームを持ってきた。30分ほど一緒に遊んだ。勿論私は手加減しない。「どうだ、お兄さんは強いだろう」と言ったら、その少年は始めて笑顔を見せた。3日目以降は、笑顔とごく普通の少年らしい快活さと明るさを共有することができた。そして普通の会話が始まった。子ども達の笑顔を見ている限り、彼らが病気であるとはとても思えなかった。ある時「どうしてそんなに日焼けしているの?」と聞かれた時、「お兄さんは、大学でサッカーをやっているんだ」と答えた。その少年が「いいなあ」と呟いた時、私はふと我に帰り、自分の置かれている立場を改めて認識せざるを得なかった。私は、これから医師になる人間なのだと。これから医師として生きていく「期待」と同じくらいの「不安」を感じた。
この一週間の見学実習で、数々の貴重な体験をした。病棟では、レジデントの白髪宏司先生(現埼玉県済世会栗橋病院副院長・小児科部長)や河野嘉文先生(現鹿児島大医学部小児科教授)に大変お世話になった。当初、自分は「病名」という枠の中にこども達を押し込もうとしていた。この重大な間違いに今回初めて気がついた。何故、もっとひとりの「生きる人間」としてのこども達を見ようとしなかったのか。「病気」は、あくまでこども達のひとつの側面に過ぎないのに。今までに自分が受けてきた教育には何か重要なものが欠けていると直感した。病棟のこども達の「輝く生命力」は、いったいどこから生まれてくるのだろうか?その「輝き」がどこから生まれてくるのかを知りたくて小児科医を目指すことを決意した。夏には、もう一度この小児病棟に戻ってきた。同時に日本の医学教育における重大な欠陥に気がついた。医学教育をもっと良くしなければならない。どうすればそうなるのか?ここに大きな動機付けが生まれた。(つづく)