ボストンで初期研修を始めて約4ヶ月、先日ベトナム人の友人からメールをもらい、その中にこんな言葉が引用してありました。
“Medicine, as we are practicing it, is a luxury trade. We are selling bread at the price of jewels. … Let us take the profit, the private economic profit, out of medicine, and purify our profession of rapacious individualism … Let us say to the people not ‘ How much have you got?’ but ‘ How best can we serve you?”
– Dr. Norman Bethune (1890-1939)
かなり強い言葉だと思います。一方で、医療との私自身の関わり方を考えずにはいられない言葉でした。なぜ医師として研究ではなく臨床を中心に歩んでいるか(ただ単に研究できる状況に達していないだけかもしれないですが)、なぜ今日本でなくアメリカで臨床をしているのか、等々、足下を見直すにはぴったりの言葉です。(彼のことも少し調べてみましたがかなり激動の人生を送っています。)
ウガンダに行きました。臨床の限界を感じました。だからこそアメリカで公衆衛生/国際保健を学びました。そして今はまた研修医として病院で過ごす日々。数ヶ月前まで大学院で聞き慣れていたものとは全く違うものを今再び学び直しています。悪いこととは思いません。ただ、どうやってその違いを自分のなかでつなげるか、そして最終的に少しは「使える人間」になるかだと思っています。
その私の友人も紹介します。彼は幼少時代にベトナム戦争がありアメリカに亡命します。エンジニアとして仕事をしながら、乳がんに関するチャリティーイベントをしながら自転車でアメリカ横断、禁煙呼びかけのキャンペーンをしながら自転車でベトナム縦断等、様々なチャリティー活動をしてきました。そしてヨーロッパに渡ってイギリスとポーランドの医学部で学んでMDを取得、その後私と同じ時期にボストンで公衆衛生の勉強をしました。大学院での専攻は行動科学。きっと彼は40歳半ばくらいだと思いますが、今からアメリカで家庭医となり将来は「コミュニティ全体をみれる医師」を目指しているとのこと。歩んできた道、勉強してきたことにつながりを感じるし、「人」が彼の中心に据えられているのがよくわかります。そして彼は人をどう導いていくか(もちろん良い意味で)、人とどう一緒に進んでいくかを知っています。私も自然とその彼の輪に含まれて影響を受けた人の1人。
このブログを通し、読んでくださった方が何かを感じ考え、私もここから広がる皆さんとのつながりから勉強させていただけたらと思っています。
どうぞよろしくお願いします。
所詮無力な医者にとってできることは、目の前の患者さんの束の間の慰めでしかありません。人を助ける事などできないし、命を終わらせる事もできません。臨床という事はそういうことだと思います。如何に慰めになるかが重要ですし、そこに真髄があるのです。
野崎病院 藤林 保
藤林先生、
お返事いただきありがとうございます。コメントいただけるとは想像していなかったので非常に嬉しく思います。
先生のおっしゃる通り、私のなかでは助けるというより何かお手伝いする感覚でしょうか。
医療を、医学の、特にサイエンスの面でとらえてばかりになりがちな
今の私の研修医生活に自戒の意味をこめて初回を投稿しました。
『臨床の限界』と誤解を招く表現を使いましたが、厳密には
「私自身の臨床医としての限界」と置き換えたほうが正しかったかもしれません。
Beyond my controlかそうでないか、その境界がその当時どう違ったかという点は
今後シェアさせていただければと思っています。
今後もよろしくお願いいたします。
斎藤 浩輝
ひさしぶりに「あめいろぐ」をのぞいてみたら、
斎藤先生の投稿を見つけて、うれしいやらびっくりです。
精力的な活動に、いつもいつも刺激をもらっています。
自分には何ができるのか、何がしたいのかを考えるきっかけをもらっています。
またいつか沖縄かボストンでお会いできればいいなぁと思います。
山地さん、
コメントいただきありがとうございます。
沖縄はいつでも行きたい場所です。
ぜひまたお話し聞かせてください。
今後もよろしくお願いします。
斎藤 浩輝