(この記事は2012年6月8日 CBニュース http://www.cabrain.net/news/ に掲載されたものです。)
現在わたしは、米国のノースウェスタン大(シカゴ)の小児消化器・肝臓科で、専門医修行中です。渡米前は移植医療についてほぼ無知でした。しかし、NYでの研修医時代に、日本から渡航してきて、米国人からの脳死臓器提供により移植を受けた子供たちを担当したのがきっかけで、日本で脳死臓器移植がまれにしか行われていない現状に深い疑問を持つようになりました。むやみに移植医療を布教する宣教師のような立場にはなりたくありませんが、今後の日本での議論展開のヒントになればと思い、現在の米国の状況をお伝えしたいと思います。
■米国では「誰もが一度は移植されてから死ぬ」
「21世紀の米国では、臓器移植という選択肢なしに死ぬことは許されない。誰もが一度は臓器を移植されてから死ぬ」というのは、この前までは一種のジョークでした。しかし、Apple社のスティーブ・ジョブズが膵臓がんという診断を受けている状況で、肝移植を受けたのは象徴的な出来事でした。上記の表現が限定的ながらも現実になりつつあることを示しています。実際、人が病気になり、死に至るまでの過程では、どこかの臓器が機能不全になります。タイミングが合えば、移植によって死期を変えることは現在の技術なら難しくはありません。
米国で臓器移植医療は、人々の日常の中に深く広く浸透しています。「親戚の誰かが腎臓移植を受けた」「祖父が心臓移植リストにいる」という会話は、ごく日常的に行われています。そして、脳死になったら臓器提供という選択肢があることも、常識になっています。
こうした状況に至った背景は複雑な要素が絡んでいます。やはり最初は米国でも、移植医療は冒険的、実験的医療として始まり、技術の革新を経て広く普及してきました。ただ日本と大きく異なる点があります。それは、その普及過程において、移植医療の是非をめぐって世間のコンセンサスを問う議論がなされたわけではない、という点です。それよりは、技術が先に大々的に広まり、社会がそれを追認していったという印象を受けます。アカデミックな人々は、移植の社会的意義をめぐって激しい議論をしたのですが、大部分の米国人はごく自然に、当然の成り行きのように、移植技術の恩恵を受けたり、脳死によって臓器提供をしたりしているというのが実情だと思います。
■臓器を社会で”Share”するという考え方
UNOSという言葉を聞いたことがありますか? 「United Network for Organ Sharing」といい、米国の移植医療を統括する中心的機構です。”Sharing”という言葉が示すように、「社会の人々の間で臓器を分かち合おう」がコンセプトの1つです。すべての(固形)臓器移植は、UNOSが作るガイドラインやルールに従って施行され、さらには移植センター病院の監察もしています。一番大切な機能は、臓器待機患者リストの管理と、ドナーが現れた際の、臓器提供先の決定です。
UNOSのホームページにはこんな数字が並びます。 現在の総移植待機者11万4596人、 現在のアクティブ待機者7万3121人、 今年1―2月の移植数4493人、 今年1―2月の臓器提供数2222人(6月6日現在)―。 大雑把に言って、1日75件の固形臓器移植が米国全土で施行されていることになります。この数字を見るだけでも、米国の医療において移植の占める割合と規模の大きさが分かります。
わたしが勤務する小児移植センター病院では、年間、肝移植が15―20件ほど行われています。月に1回は、新規の肝移植が行われていることになり、心臓、腎臓を入れると、もっとたくさんの移植ケースがあります。小児病院でこの数ですから、大人の移植センターではそれこそ、「移植は日常」です。病院では研修医はもちろん、歯科医、ナースから薬剤師、技師に至るまで移植患者、移植ケースに頻繁に接しています。もちろん、移植センターだから特殊な状況だ、ということも言えます。しかしながら、こういった病院で研修を受けた学生、研修医など、移植ケースとの関わりを持ったことのある延べ人数は膨大な数になります。その医療従事者にとって、移植医療はそんなに遠い存在にはなりません。
この「移植ケースを知っている医療従事者の数」が、社会の中に移植医療を浸透させる大事なカギだとわたしは思っています。家族の中に看護師がいたり、医師がいたりすると、家族の誰かが病気になった時、かなり重要な情報ソースになります。また、彼らは何気ない友人との会話の中で自然に移植医療について話したりします。それも、見たこともない雲の上の特殊技術ではなく、身近にあったケースとして。こういった事が、新聞やTVのニュースだけでは果たせない”身近さ”効果を生み、社会の中で安定した情報の土壌になっていくのだと思います。
■「社会インフラ」としての臓器移植
現在、米国で日常的に移植医療に関わっている医師として、日々感じていることがあります。それは、「臓器移植医療は新しい社会インフラである」ということです。
移植医療は、献血と輸血システムに似ています。「なくてはならないサービス」だという共通の認識のもと社会全体に普及し、一般の人々の理解・協力と、公的機関の舵取り (UNOS・赤十字のような機関)により成り立つ、医療行政システムの一つなのです。裏を返せば、大都市の大学病院の一部で行われている「特殊な先端医療」ではなく、患者が自分の日常からはかけ離れた世界の出来事だと思っていては成り立たない。つまり、医療提供者と患者との関係を超えて、社会サービスの一つとして認識されなければならないのです。
日本では、脳死による臓器提供があまりに少ないので、活発な移植医療が行われていないのが現状です。しかし、なぜそれが10年も20年も改善されないのでしょうか。脳死判定問題で最初につまずいて、移植医療そのものの議論がなされていないのも問題ですが、このまま普及していかない状況を、「日本に移植医療は適合しないからだ」と結論付けてしまっていいのでしょうか。
社会のインフラである以上、その必要性・価値を決めるのは一般利用者です。しかしそもそも、現在の日本で、一般の人がどれくらい臓器移植について知っているでしょうか。自分の身近に関わりのあることだと、誰が思っているのでしょうか。医療の受益者である一般の人々は、ちゃんと思考するための材料となる情報を、公平に届けられた上で、移植医療を「必要ない」と選択しているのでしょうか。
■日本人は移植医療を受け入れるか
日本人は21世紀を先進国の人間として生きて、「移植を受けずに死んでいく」ことを受け入れるのでしょうか。もし、日本人の大部分がそういった価値判断をするのならば、それはコンセンサスであり、「選択」です。わたしは、個人的に、「移植を受けずに潔く死んでいく」日本人の姿も想像に難くなく、むしろノスタルジックに好感さえ抱きます。
しかし、それは、医療提供者の経験に基づく情報が、社会に安定的に・公平に与えられた状況での判断であって初めて、価値があるものです。「移植は自分には関係のない特殊医療技術」だと思ったり、思わされたりしているのなら、それは公平だとは思いません。21世紀の先進国では移植医療は、誰もが享受できるはずの身近な医療技術であるはずです。
「ドナーがいないから」というのは、日本で移植医療が進まない本当の理由ではないと思います。ドナーがいないのは、社会インフラとしての普及が進められていないからではないでしょうか。あるいは、身近な治療の可能性としての移植を、人々に啓蒙していないことが一因かもしれません。そして何より、医療提供者側に決定的に経験が足りないのではないでしょうか。だとしたら、それは情報の不平等であり、21世紀を通して変えていかなければならないことではないでしょうか。
最後に、”Sharing”と言うことを強調しておきたいと思います。移植を受けるということは、臓器を提供することと表裏一体です。社会全体で、個人の体の一部を分け合うという、この新しいインフラ。それを選択肢として提示された場合、どういう判断をするのか、一人ひとりが考えておくべきことだと思います。
私はこの問題を宗教的、文化的な違いとして捉えています。
実家が浄土真宗のお寺、バイト先は神社、学校はキリスト教だった私の個人的な考察です。
米国では大勢を占めるキリスト教では、「分かち合い」という言葉が非常に重要です。最後の晩餐において、キリストが弟子たちに分け与えたものは、自らの「血」の象徴であるぶどう酒であり、自らの「肉体」の象徴であるパンでした。つまり、キリスト者(キリスト教信者)にとっては、自らの肉体を他者に「分かち合う」ことはキリストの行為につながる、非常に有意義な行為なのです。臓器を提供することによって、究極的にはキリストと同じになれるからです。最後の晩餐の後に死刑になったキリストは、3日後には復活して、「自己犠牲による死の後には復活の日がくるんだよ」というメッセージを明確にしており、弟子のまた弟子たちである現在のキリスト教信者たちには、臓器移植への垣根が低いように思います。
日本においては儒教と仏教の影響の強い、「因果」あるいは「輪廻」という概念が社会的に残っています。若い先生方にはなじみが無いかもしれませんが、何がしかの障害があって生まれてきた場合、親の因果、あるいは前世の因果であるという捉え方をする人がまだ少なくありません。具体的に言うと、臓器を提供して肝臓あるいは腎臓が無い状態で埋葬されると、輪廻後の来世でそれらを欠いて生まれてくる、あるいはそれらの臓器が無かったことによる因果をうけるというものです。これは理知や理論で片付けられるものではなく、否定も肯定もできないものです。親が子供を埋葬するときにせめて来世では健康な人生を送れるように、「五体満足」「五臓六腑満足」のまま埋葬を希望するという文化があるかぎり、現時点での小児領域での移植の推進は難しいように思います。もちろん、若い世代の親御さんたちにはそんなことを知らない人も多いでしょう。今後も世代交代が進めば自然と日本でも移植医療が進んでいくのではないでしょうか?
私自身は臓器提供を希望します。使えるものは何でも持っていってくれ、と思いますし、意思表示カードも持っています。今後の日本の移植医療をになう若い先生方に、医療、科学的ではなく、社会学的に移植を一考していただければ幸いです。
”因果”の概念については、認識が甘かったです。確かに、そういうことを感じる人は多いかもしれません。祖父や祖母の世代の人の”五体満足で埋葬したい”という観念は、想像に難くありません。日本を離れて10年たち、そろそろそういったことを忘れかけていました、ご指摘感謝します。
世代交代を待つのが得策なのでしょうか、、、。文化的な、生活に根付いた観念を変えていくことは相当な困難だと思いますが、日本人の生死観も3世代前とは大きく違ってきているし、新しい概念を受け入れやすい文化だとも思っています。過去に似たような事例で成功例はありますかね?
臓器移植を考えるとき、是非読んでいただきたい本があります。まず、「人は死なない:ある臨床医による摂理と霊性をめぐる視察」、そしてその続編「人は死なない。ではどうする?」の2冊です。著者は矢作(やはぎ)直樹先生、ポジションは東京大学大学院医学系研究科/医学部救急医学分野教授及び医学部付属病院救急部集中治療部部長です。日本では著者のポジションゆえ話題になった本のようですが、現役のお医者様が人間の生と死をご自分の臨床経験から深く考察されています。皆様のような医療に携わっていらっしゃる方や「いきる」とは何か、考えている方にはおすすめ致します。ご参考まで。
コメントありがとうございます。
さっそくアマゾンで覗いてみました。次回日本に一時帰国した時に読むように注文します。本の内容と移植がどう繋がるのか、とても興味があります。ありがとうございます。
先生ご自身は、「脳死=死」をご自身がしょって立つ近代医学の言葉と論理で説明できますか。それを「ちゃんと思考するための材料となる情報を、公平に届けるために」市民がわかるように説明できますか。米国でも日本でもそこを意図的にすっ飛ばして(なぜなら説明できないから)、命のリレーとか、愛の贈り物といったイメージだけで「臓器提供=いいもの」という世論を作っているよう思えます。日本は遅れているのではなくて、そういう「すっ飛ばし」のようなものに感づいている市民が実は多い。ある意味、「よくわからないものに対しては沈黙せざるをえない」というまともな行動だとおもうのです。
コメントありがとうございます。 コメントを読んで、正直冷や汗が出ました。 というのも、僕自身はひたすらに移植のことを伝えようとして書いたのに、頂いたコメントが”脳死”の部分へ直行しているのに気がついたからです。脳死に関しての議論は、どうしても避けたかったのです。それは今までさんざん議論されてきているし、日本の医療現場にいない自分が日本人の生死観にコメントをするのは、はばかられたからです。
しかし、こうやってコメントを頂くということは、日本では、移植と脳死はもはやセットでしか考えられないようになっている、ということの指摘にほかなりません。
せっかく頂いた機会なので、次回のブログに自分なりの返信を書きます。しばらく時間を下さい。