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ブログについて

アメリカに住み始めて既に20年以上が経ちました。気がついてみたら、アメリカで生まれた4人の子供たちはすっかりアメリカ人として成長し、今年の秋には3人目が大学に入学します。今は、「日本」のことが恋しくてたまりません。趣味:テニス、サッカー、ジム、音楽鑑賞、読書(歴史物、特に日本の近・現代史)。尊敬する人:坂本龍馬。

津田 武

信州大学卒業。フィラデルフィア小児病院にて小児科レジデント、循環器フェロー修了。その後基礎研究に従事。2004年よりAlfred I. duPont Hospital for ChildrenにてStaff Cardiologist とし、臨床と基礎研究に専念。米国財団野口医学研究所常務理事(医学教育担当)。

津田 武のブログ
2012/02/11

「真の勇者との出逢い(下)」

こどもは、概して入院中と外来受診時とは違う顔をするものである。K君は、退院を契機にして病棟医である私からもとの血液外来の外来主治医の管理に戻った。今までずっと約7年間診てもらった専門外来の先生の下に戻るのであるから、それは蓋し当然の道理であろう。翌年3月に入って、K君は、お母さんとともに外来受診の後病棟にも挨拶に見えたことがあった。信州の春の到来は、いつも歓びに満ちている。同じように、元気なK君を見て私はとても嬉しかった。K君は、髪もちゃんと生えて入院の時と違って頗る顔色も良かった。「元気そうだね」と声をかけたところ、K君は、少し照れくさそうにはにかむようにごく簡単に会釈した。私は、正直言ってちょっと拍子抜けの感じがした。いいや、このはにかみやの少年がK君の本来の彼の姿なのだろう。だから、これでいいんだ。たった2ヶ月間であった私の病棟医としての任務は終わったのだ、と自分に言い聞かせた。その月末、私達研修医は、一年の大学病院の研修を終えて地域の中核病院の小児科スタッフとしてそれぞれの任地に赴いた。私は、松本から車で約2時間ほど北にある総合病院に転勤となった。医学生時代からのアパートからの慌ただしい引越し、そして新しい生活への不安と期待で、感傷に浸る時間は殆どなかった。

信州の短い夏が過ぎた。その秋の初め、K君はまた再発のため大学病院での入院を余儀なくされた。K君の再入院のことは、前回入院時K君の担当であった病棟の看護婦さんがわざわざ私の外勤先の病院まで知らせてくれた。決して予想していなかったことではなかったが、やはり愕然とした。やはり一年は持たなかったか、と。急性白血病は、再発を繰り返すたびに寛解の時間が次第に短くなり、治療抵抗性になりそしてやがて死に至るという厳しいものである。K君が入院して間もない時期に、思い切って私は研究日に大学病院までお見舞いに会いにいった。K君の顔は、一目見て、悲しみと憤りに満ちていた。私は、何て言っていいかわからなかった。「K君、病気はきっと直るからな。きっと直るから、だからがんばるんだよ。」私は、励ますつもりで、また嘘をついた。K君は、返事をしなかった。傍らにいた母親は、申し分けなさそうに頭を下げた。私は、医師として、友達としてすら無力である自分が情けなかった。K君の今回の病棟主治医は、私の後輩にあたるその年の研修医のひとりが担当していた。

4ヶ月の厳しい治療後、何とか寛解導入が得られK君は無事退院したと後日風の便りで聞いた。今度の入院では、私の登場場面は最初の一場面を除いては全くなかった。私は私で、勤務している病院での外来・入院患者の診療に忙殺されていた。急性白血病もここまで進行すると、その予後を変えることはまず困難である。私は、ただ祈るしかなかった。しかしその祈りも空しく、K君は退院2ヶ月後にまた再発した。今度は、白血病細胞の脳室内穿破で病院搬送時には既に意識不明の重体であった。いかなる化学療法にも反応せず、再び意識を取り戻すことなく2週間後K君は永遠の眠りについた。今回の知らせは、彼が亡くなってだいぶたってから私のもとに届いた。K君の治療には、これまで数多くの医者が携わってきた。私は、結局はその数多くの医者の内の一人に過ぎなかったかも知れない。ただ、私にとってK君は大切な友達だった。少なくとも私はそう信じたかった。たった2ヶ月の付き合いであったが、友達を失った悲しみ、無念さは筆舌に尽くし難かった。悲しく、憤懣やるかたない、いつもと違う春であった。

K君が亡くなってから2ヶ月程たった青葉の眩しい五月下旬のある日、私は大学病院の病棟医長であり血液専門外来部長であるN先生から電話を受けた。「先生、今度いつ大学に来ることがある?K君のお母さんが、先生に是非会いたいっていうんだよ。」K君が亡くなった後、お母さんがK君の部屋を整理していた時に、その中からK君の日記が見つかったこと、K君は自分が白血病であったことをずっと前から知っていたこと、白血病の治療に関して図書館などでかなり勉強していたこと、など。そしてその日記の中に私の名前が何度も出てきて、お母さんは私にどうしてもお礼を言いたい、との事だった。翌週の水曜日、昼過ぎに大学の医局に到着すると、K君のお母さんはすでに医局の図書館で私を待っていた。「この度は、本当に残念なことになり….」、K君に二度も嘘をついてしまった後ろめたさと医者としても友達としても何も出来なかった無念さから、私の言葉は言葉にならなかった。K君のお母さんは、「私の我が侭を聞いて戴いて申し訳ありませんでした。遠いところ来て戴いて本当にありがとうございます。」「息子が入院中本当にお世話になりました。本当にありがとうございました。」目に一杯の涙をためて、私の手をこの前と同じように強く握った。私は、ひどく恐縮した。「私こそ、何も出来なくて、申し訳けない限りです。」お母さんは、毅然として答えた。「そんな事はありません。息子は先生に本当にお世話になりました。」お母さんは、何度も同じ言葉を何度も繰り返した。「これは、ほんの私の気持ちです。受け取って下さい。」と言って私に白封筒を握らせた。白封筒の表には、「御礼」という文字が読めた。「私はこれを貰う資格などありません。」私は固く辞退したが、お母さんは頑としてそれを認めなかった。「是非受取って下さい。そうでなければ私の気がすみません。」私は勢いに押されて結局受取ってしまったが、同時にこれが人の情なのかとも思った。その後、K君のお母さんと再び出会う事はなかった。

K君の日記の中で自分がどのように描かれていたのかは、非常に興味深く思った反面、当時の私は本当の事を知るのが怖くてそれを聞くことができなかった。真実に直面するのが怖かったに違いない。全く情け無かった。K君、君の勇気にあれほど感銘を受けたのに、先生は結局君から何も学んでいなかったみたいだ。ただ、いつか君のように、本当に勇気のある人間になりたいと思っている。君との出会いはたった2ヶ月と短かったが、君は私にとても新鮮で強烈な思い出を残してくれた。人と人の心のつながりの強さは、決して両者が過ごした時間の長さに比例するものではない、と言うことが最近分かってきたような気がする。君の教えてくれた「勇気」を、これからも大切にしていきたい。もうひとつ、君に対して二回も嘘をついてしまった先生を許して欲しい。医者としても友達としても中途半端だったのは、それは自分自身が人間としてまだ未熟だったせいだと思う。ただ医者になって一年目に君と出会えて本当に幸運だったと思う。医者でありながら患者に思いっきり感情移入できるのも、医者になって最初の一年目だけだからだと思う。成熟した医者は、やがて全ての感情をコントロールし理知的に患者に接することができるようになる。そこにあるのは、患者への「共感」であり、「感情移入」ではない。先生は、未だその勉強中だったのだ。

付き合った時間は短かったけれども、今でも私は君の事を最も大切な友達の一人だと思っている。君も先生の事を同じように思っていると考えてもいいかい? もし自分が天国に召される時は、先生はおそらく25歳の研修医の姿に戻っていると思う。そして天国の門を入ると誰よりも先にまず最初に君を探すだろう。君を見つけたら、まず君を抱きしめたい。そしておもむろに君にあの時の日記に私のことをどう書いたのかを聞くだろう。先生は、あの時君に嘘をついたことをあやまりたいと思っている。その後きっとこう君に尋ねるだろう。「K君、先生は小児科の医者としてあれから自分なりに一生懸命頑張ったと思うけど、天国から見て先生の活躍はどうだったと思う?」と。おそらく君は、ウインクをしながらこう答えるであろう。「そうだね。先生は、まあまあいい方だよ」って。

 

この素晴らしい出会いを授けてくれた山辺勝彦君のご冥福を心よりお祈りいたします。

 

2件のコメント

  1. Junko より:

    初めてのコメント失礼致します。私は小児科で働く看護師です。上中下と、胸がいっぱいになりながらいっきに読ませていただきました。過酷な医療の現場の話でありながらもとても温かいものを感じました。また、津田先生の患者さんと向き合う心に感銘致しました。ありがとうございます。

    • 津田 武 より:

      Junko様。私の長いエッセイを読んでくれてありがとう。この話は、まだ自分が独身の頃で、まだ「家族」とか「こども」とかの本当の意味が分かっていなかった頃の話です。一生懸命だったけど、医師としても人間としても経験の無さのため、大きな「すれ違い」があったのだと思います。でも、こういう経験として皆成長していくのでしょう。それでも、あの若くて、未熟で、不完全だった研修医一年目の自分が、今でも自分の医師としての「原点」だと思っています。

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