2004年の4月から2006年の3月にかけて2年間「ばんぶう」(日本医療企画)という雑誌にエッセイを連載したことがありました。その中で、自分が最も気に入っているエッセイを紹介します(少し修正しました)。あの頃は、自分の将来がどうなるか全く見えず、ただ生きるのに必死で、家族のことを振り返る余裕はあまりありませんでした。そんな中で、当時12才だった娘の一言で、自分は決してひとりではないことに気づきました。「医師」である前に「人の親」であることの大切さ、そして自分の周りにあって今まで気づかなかった「豊かさ」に気づいた瞬間でした。
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「四つ葉のクローバー」
これは丁度三年程前にあった話です。「パパ、辞書の中からこんなのが見つかったよ!」当時ちょうど12歳になったばかりの長女が歓声を上げています。何かと思ったら、何と私が大学の教養時代に使っていた三省堂の仏和辞典の中から押し花(葉?)になった四つ葉のクローバーが見つかったのでした。これは、確か私が大学一年(教養部一年)の時に挟んだものに違いありません。およそ四半世紀の長い眠りから遂に呼び覚まされた、そして驚く事にその封印を解いたのがなんと自分の娘であったとは!当時19歳の自分は、まさか20年以上もたってから自分の娘によってこの「宝物」が発見されるとは夢にも思ってはいなかったでしょう。四つ葉のクローバーを見つけた時に感じる気持ちは誰でも同じだと思います。それは、自分だけの「幸福」を見つけたというささやかな興奮と喜び。当時の私は、それが本当に必要になった時に「願い」をかけようと思って人知れず辞書の中にしまってしまい、そしてそのままその存在を忘れてしまったのだろうと思います。そのため四つ葉のクローバーは、再び日の目をみることなく眠り続けることになりました。19歳のまだ若かりし頃、ヴェルレーヌやランボオなどのフランスのロマン派の詩人に傾倒し、やや気だるい生活を送っていたことを思い出します。美しさに憧れながらその美しさに近づくことが出来ない悲哀と孤独感。今では殆ど記憶から忘れ去られてしまった数々の詩と「思い出」、それが不思議と「四つ葉のクローバー」と一緒になって蘇ってきました。
16年前に渡米する際に、持っていく書籍類は最低限にしたはずなのに(英文の医学書のみ)何故か不思議と最初の荷物に混じってついて来たこの仏和辞典。一体どうして仏和辞典などアメリカに持ってきたのか、その理由は今もってよくわかりません。いつか誰かに開いてもらいたくて、その思いが私に通じたのでしょうか。他の誰でもなく自分の娘によって自分の若き日の秘め事(ちょっと大袈裟!)の封印が解かれたことに、私は大いなる照れくささと少しばかりの喜びを感じました。以下は、娘との会話。
父 「四つ葉のクローバーってどうして特別なのか知っている?」
娘 「幸せを意味するからでしょ。」
父 「じゃあ、どうして幸せを意味するか、知っている?」
娘 「ううん、よく知らない。」
そこで父親は、20年以上も前に何かの本で学んだウンチクを披露することになります。 「クローバーの花言葉は、通常にある3つの葉に対して、愛 (Love)、信仰 (Faith)、そして希望 (Hope)という意味があるんだよ。そして遠慮がちについている4つ目の小さな葉が幸福 (Happiness) を意味するんだ。四つ葉のクローバーは、めったに見つからないから、人々はそれを『幸福のクローバー』って呼ぶんだ。」「へえー、そうなの。」ここで「幸福」の証を受け継いだ娘の顔は、心なしか輝いて見えました。
でも「幸福」の本当の意味はそうじゃないんだ。これから先は君がもうすこし大人になった時に話そうと思う。人は自分が「幸せ」と感じない時、往々にして「幸福」を自分の「外」に見つけ出そうとする。広い草原の中で一生懸命四つ葉のクローバーを探し求めるように。でもそういう時に限って探しても探しても四つ葉のクローバーはなかなか見つからないものだ。そんな時、何処にでもあるありふれた三つ葉のクローバーをよく眺めてごらん。三つの葉がとてもバランス良く均整がとれていてとても綺麗だと思わないかい?そう、人間も愛情に満ち溢れ、正しい信仰を持ち、そして明日への希望を持ち続ける限り、それが紛れもなく本当の「幸福」の姿なのだよ。「幸福」とは、最初は君の目に見えないかもしれない。なぜなら「幸福」は常に君の「内」にあるからだ。君自身がもっと努力して君自身の心の中にある「幸福」を実感できるようになって欲しい。そのためには君はもっともっと世の中の事を勉強しなければならない。それが大人になるための大切な成長過程だから。頑張って欲しい。私達も心から応援する。でも「幸福」が何処にあるのかわからなくて、どうしていいのかわからず途方にくれてしまったら、いつでも私達のもとに帰って来なさい。どれだけ大人になっても、君は何時までも私達の愛する子どもなのだから。
四つ葉のクローバーは私からの君へのプレゼント。大切にしまっておいて欲しい。そして、君が君の人生で一番大切な人に出会った時に、このメッセージを伝えてあげて欲しい。もう3年もすれば、私達のもとを巣立ってゆく君に、そして私にとっての一番大切な人の一人である君に。
メーテルリンクが「青い鳥」で言いたかった「幸せ」も、これと同じだったのではないかと思います。本当に大切なものはいつも自分の近くにあるのに、ただ自分自身がその存在に気がついていないだけなのかも知れません。例えば、「空気」「水」「自然」「健康」そして「家族」などのように。至極当たり前のことに対して素直に喜び感動できるようになれば、それが本当の「幸せ」の意味を知ることではないでしょうか?子ども達が一人立ちする前に是非ともこの大切なメッセージを伝えたいと思っています。
子どもが子どもである期間は本当に短いものです。私たちにも、かつてそんな「時間の速い」激動の時代がありました。その時に私達の親が感じたであろう期待と不安と葛藤を、今度は私たちが体験する番になりました。子供たちが自ら問題に直面して、闘い苦しみそしてそれを克服して次のステップにすすむ。実はこのプロセスから大人である私たちが一緒に学ぶことが一杯あると思います。医学も同じです。親が子どもから学んで成熟していくように、医師は患者から学んで成長していきます。私は、大人になりゆく子ども達の健康を預かる医師であることを、子ども達の父親であることと同じくらい誇らしく思っています。