医学部を卒業して、医師国家試験を合格して、晴れて「医者」になった。一年目の研修は、母校の大学病院の小児科で過ごすことになった。あの非効率の極地とも言える環境で、人間として医師として様々な「こころ」を学んだ。あの一年間は、自分の医師のキャリアの中でも最も印象深い一年であったと思う。その中で、ひとりの忘れられない患者がいる。数年前、その思い出をエッセイにしてみた。
「真の勇者との出逢い」
小さい頃から、強い人・勇敢な人に憧れていた。どんな困難に陥っても、決して最後まで希望を捨てないで明るく皆を励ます、そんなリーダーシップを取れる人をとても素晴らしいと思った。「勇気」 と言うと、多くの場合視覚的な力強さや物理的な激しさそして何らか偉大な業績を想像するが、私が学んだ「勇気」はそれとは多少異なる。私はそれを図らずも一人の少年から学んだ。その少年は、今までの私の半生の中で知り得た最も勇敢な人間のひとりとして今でも私の心の中で生きている。もし生きていれば、間違いなく素晴らしい大人になっていたであろう。彼が今でも私の心の中で少年のままの姿なのは、彼が少年のまま生き、少年のまま生涯を終えたからである。短い付き合いの中で、私はその少年から「生きる」という本当の勇気を学んだと思う。
この話は、もう25年以上も前のまだ私が駆け出しの研修医であった頃の話である。医学部を無事卒業し国家試験に合格したあと、私は母校の大学病院で小児科の研修医として勤務することになった。大学病院の小児病棟は、白血病、小児癌、先天性心疾患、先天性代謝疾患等の重症患者で常に一杯だったが、それでも夏休みには、比較的病状が安定している子どもたちが一時外泊するため、病棟は比較的落ち着いていることが多かった。2週間の夏期休暇を終えて病棟に帰ってきた時に、自分の受け持ちに知らない名前があった。「K君」という、12歳の少年であった。診断名は、「急性リンパ性白血病(ALL, Common type、骨髄再発)」。K君の年齢は12歳だったが、実際は8~9歳くらいにしか見えなかった。8~9歳にしか見えないのは、それなりの医学的な理由があった。骨髄移植が今ほど多く行われていない当時の治療法の中心は、抗癌剤による化学療法と放射線による頭蓋内照射であった。頭蓋内照射は、大脳への白血病細胞の浸潤を予防するために行われた。抗癌剤が浸透し難い臓器の代表選手に、大脳(中枢神経系)と睾丸(女性の場合は卵巣)があり、これらの臓器は「聖域」と呼ばれ生き残り白血病細胞の温床となった。放射線療法は、主に脳室内をターゲットにするのだが、その照射野には脳下垂体も含まれた。その脳下垂体の前葉からは、人間の成長に必須の成長ホルモンが分泌されるので、小児白血病でこの治療を受けた子どもは、いきおい低身長になることが多かった。
当時の白血病の化学療法は、主として3段階に分類され、大きく(1)寛解導入(体内の白血病細胞の全滅を目指す強力な治療。当然副作用も強い)、(2)強化療法(寛解を持続させるために断続的に行なう比較的強力な治療)、(3)維持療法(外来でもできる比較的軽い治療法)に分けられた。(3)までたどり着いた患者は、規定の外来治療後、「完治」とみなされ治療は終了(off therapy)とされた。維持療法に到達する前に再発した患者は、また(1)の寛解導入を繰り返す事になる。そして当然の事ながら、前回の寛解導入治療よりは強力なしたがって副作用の強い治療法が選択された。私が研修医だった1980年半ばでは、化学療法の進歩により急性白血病の5年生存率はかなり向上し、白血病はもはや「不治の病」ではなかったが、それでもまだ完治は少なかった。K君は、5歳の時急性リンパ性白血病を発症して以来これまで何回も入退院を繰り返してきた。K君の白血病細胞のタイプは比較的化学療法に良く反応する反面、治療が弱くなり時間が経つと再発するという性格のものだった。だから、12歳にしてもう入院のベテランになっていた。今回入院する1年前、白血病が睾丸に再発したため、両方の睾丸を摘出する手術を受けた。そのせいもあってか、K君は年齢以上に少年ぽく見えた。
その外見とは裏腹に、K君は早熟だった。そしてとても賢く、明るく、小さな子どもたちにとても優しかった。彼との最初の出会いは、私が夏休みから戻って来た月曜日の処置室であった。研修医の朝の日課として、患児の採血があった。白血病の子どもの血管は、度重なる化学療法と採血のため細く壊れやすく、朝の採血は新人医師にとっての大きな鬼門であった。初めての患者には、一番最初の「立ち会い」が肝心である。一発で成功すれば、その子の尊敬を勝ちうるが、そうでなければ入院中ずっと子どもになめられる事もある。2週間のブランクもあり最初の採血は失敗してしまった。K君は、ちょっと顔を顰めたが、特に痛いとも言わなかった。自分でも「しまった」と思ったが、気持ちを入れ替えて、2回目になんとか成功した。さすがに悪く思って、「2回も刺しちゃってゴメンね。」と言ったところ、K君は、「先生は、まあまあいい方だよ。血液外来の主任として今では偉そうにしている助手のT先生が研修医の時なんか、全くひどかったぜ。俺なんか6回も刺されちゃたよ」と大きな声で喋った。病棟医として実際患者を持つのは、研修医か数年の経験を持つ医員のどちらかであり、助手以上になるともう直接入院患者を持たない。驚くことに、K君は、医局における医者のヒエラルキーについても良く知っていた。7年前の事だからたぶん白血病の初発の時だったであろう。その時、はからずも病棟から足早に去っていくT先生の姿を皆で目撃した。T先生が去った後、介助してくれた看護婦さんも一緒になって皆で思いっきり笑った。K君の周りには、いつも明るい笑いが絶えなかった。今回の再発後の再寛解導入の治療は、極めて厳しいものであったが、K君はよく耐え、大きな副作用もなく比較的順調に経過した。K君は、どんなに苦しくとも決して弱音を吐かなかった。治療開始後1ヶ月後の骨髄検査では、骨髄からは白血病細胞は全て消えていた。私は、指導医の先生と顕微鏡下で骨髄細胞のカウントをしながら湧き上がる喜びを分かち合った。経過は万事順調であった。
続く
初めまして、コメント致します。
山辺君のご冥福を心からお祈り申し上げます。
また、私も医師、医学研究者ですが、一層精進して参ります。
高橋先生、エッセイ読んでくれてありがとうございます。もう27年前の話です。今なら「日記」に書かれていた自分自身にきっと対面できると思って、6~7年前この思い出を文章にしました。世の中のことを何も知らず、本当にぎこちなく、そのくせ生意気でそして純情だった研修医の頃の自分が、今でも医師としての自分の原点だと思っています。これから医学・医療という世界で生きてゆく若い人たちが、ぎこちなくても、ひたむきに精進していくことを願い、このエッセイを公開しました。