翌年 2011年度、沖縄 → 東京都立小児総合医療センター → 再び岸和田、とめまぐるしく異動することとなった。臨床留学へ向けて、100通ほど面接の応募をしたが、結局ニューヨークとエルパソの2カ所しか返事が来なかった。面接を終え、3月のマッチ結果は、ちょうど南の某島へ応援に行っているときに知ることになる。
その島は人口3万人。日本一の出生率を誇るにも関わらず、小児科の常勤医はゼロという島である。岸和田からの応援で小児科をみていた。診療を終え、ホテルであと数時間に迫るマッチ結果を待っていた時に、病院から電話がなった。夜の12時だった。「生後1週間の赤ん坊が熱を出して受診している。診てくれないか」。私がホテルから病院に駆けつけたところ、夜間の待合室に、不安気な母親が赤ん坊を抱いて私を待っていた。見覚えのある母親だった。その赤ん坊の姉がRSウィルス肺炎で入院していた。「これはまずい」と直感がよぎった。すぐに母親に駆け寄り、赤ん坊の顔をのぞいた。その瞬間に、赤ん坊の呼吸が止まった。RSウィルス細気管支炎による無呼吸発作だった。「なぜ、このタイミングで?」と頭によぎったが、それ以上のことを考えている余裕はなかった。ただただ目の前の赤ん坊を救うことに集中した。気管内挿管して、諸治療を行うさなか、自分のマッチ結果を確認した。結果は “you didn’t match any program” だった。ヘリコプターにバッグをもみながら乗り込んだ。ヘリコプターから夜空の星をみながら、考えた。不思議と悲壮感はなかった。ただ直感したのは、「この子はきっと助かるな。Intact(合併症なく)で、帰ってくるだろうな」と感じたことだった。事実、その子は合併症なく無事に帰島したと、後日連絡を受けた。
私は特定の宗教をもたないが、この経験から、人智を越えた何らかの存在、というのを考えるようになった。「君はまだ海外に行くべきときではない、落ち込むヒマなどない、もう1年は日本に踏みとどまりなさい」という何かの声だったのでは、とポジティブに考えた。かつて、沖縄海軍病院の小児科部長であったD先生が「人生で起きることには何か意味がある、たとえその時にはその意味がわからなくても」と言っていたが、私は渡米にここまで時間がかかったことに後悔はまったくない。
ただ、2012年度のマッチまで道のりは甘くなかった。外国人にとって、小児科は、外科ほどでないにせよ、家庭医療・内科より狭き門である。私はstep1の点数が低く、step2CSは2回目で合格し、かつ卒後年齢が高かった。全米で、外国医学部卒業者(IMG)のマッチ率は今や40%と、年々低下している。100通以上、再度応募したが、当初は1通も面接が来なかった。もうダメか、とあきらめかけていたところ、沖縄海軍病院小児科部長のD先生が、自国異動の際に関西空港にトランジットする機会があった。私たち家族で会いに行ったところ、「あなたがマッチできるように、私でよければプログラムディレクターに電話でもE-mailでもしてあげようか」とありがたく声をかけてくれた。すでにハワイ大学からは面接のrejectionのメールが来ていたが、D先生を通じてお願いしたところ、その翌週にハワイ大学から面接のメールが来た。結果、私はハワイ大学に大逆転マッチして、幸いにも研修を開始している。D先生には足を向けて寝られない。
こうして、2012年度7月から卒後12年目、37歳となるおっさんレジデント研修が始まった。すでに同年代の中には、海外での研修をすでに終えて、日米で活躍している人たちも少なくない。その中で、私の歩みはただただ遅く、時にくじけそうになる。先月ももっともハードな研修である病棟研修で、「こんな思いを3年間続けるなら、さっさと日本に帰った方がましだ」と何度思っただろうか。ただ、幸いにも家族と多くの仲間に支えられ、今に至っている。
私が海外を目指したのは、冒頭に述べたように、「好奇心」が大きく寄与している。だが、臨床留学しただけでありがたく尊重されるのは、すでに10年前の話である。今や臨床留学者は珍しくない。臨床留学は手段であって、目的ではない。そんなことはわかっているが、正直な話、私も自分で目的がわからなくなることがある。
2001年度、医師1年目後半を過ごした旭川厚生病院 放射線科で、計12人のガン患者たちを半年で看取った。人生で最初に人の死に立ちあった瞬間は今も覚えている。しぼるようにして声を出して死亡宣告した。11年前は思った。「一生、自分が看取ったこの12人の患者さまの名前は忘れるまい、これは私の医師の原点だ」と。でも、すでに10年以上経過して、当初の記憶があやふやになり、多忙な日々に自分が流されそうになる。自分は本当に医師として成長してきたのか、あの頃の熱い思いは今もまだ自分に残っているのか、自分をふと問いつめる。臨床留学で将来が保証されるか、答えはNOだ。臨床留学を越えた先にある目的を見失いそうになる。そんな時に、あの頃に出会ったガン患者たちに祈り、答える。“あの時の思いを忘れたわけではないですよ、ただ、今の私は「太平洋のこどもたちの最後の希望」です。まずは目の前のこどもたちを救います”。
好奇心に突き動かされてここまで来たが、sickな患児を目の前にして、未来を考える余裕は(インターンの現在は)まだない。気勢をあげて、今日もカピオラニ小児病院へ向かう。
奮闘中の姿が目に浮かぶようです。
くじけないでください。挑戦を発信してください。
わたしは想うところあり精神科に挑戦しています、六十過ぎて。
学問としての混乱、業種としての矛盾そして私のいたらなさにイラついています。
自虐的におっさんとおっしゃいますが、暦年齢などつまらない。
好奇心を失った時がおっさんの始まりではないでしょうか。
コメントありがとうございます。今後も百折不撓の念で、少しずつでも前進していきたいと思います。ハワイから臨床留学便りを定期的にアップする予定です。今後ともよろしくお願い致します。
はじめまして。
旭川医科大学 医学科4年の市丸千聖と申します。
桑原先生の行動力と好奇心,素晴らしいと思います。
私は今,大学でUSMLE勉強会を行っています。
参加者はあまり多くはないのですが,週1,2回授業開始前に1時間ほど集まって,分担して各自解いてきた担当の問題を勉強会で解説する,という形式でおこなっています。
私自身は,短期留学を経て英語の重要性を痛感したことと,将来の留学を視野に入れて,USMLEを勉強しています。ですが正直,自分でも海外留学したい理由が漠然としていて自信がなくなる時があります。
桑原先生が旭川医科大学の先輩だと知って,もしよかったら海外留学に関してUSMLEの勉強法を含めアドバイスが頂けたらな,と思いコメントさせていただきました。
先生のご活躍をお祈りしています。
市丸千聖さんへ
メッセージありがとうございます。USMLEについては、すでに多くの情報がネットで把握できるので、最新情報についてはそちらを参考にしてもらった方がいいかもしれませんね。私の知識はすでに古いものになりつつありますが、基本はUSMLE WORLD か kaplan Q bank のどちらかをまずは解いてみることをお勧めします。マッチングのために大事なのは「一発で、できるだけハイスコアで通過する」ということです。
市丸さんのように、医学生のうちに海外に短期留学することは、国際的な視野を広げることに役立ちますね。とてもうらやましいです。私が卒業した2001年の頃はインターネットがやっと広がりつつあった時代でした。パワーポイントもなく、私の初めての学会発表はスライドプロジェクターでした。この10年で本当に世界は狭くなりました。日本の医療社会はますます国際化の波を意識させられると思います。日本人医師が世界へ臨床留学することも珍しくなくなってきました。
夢さえあれば、理由なんて後からついてきますよ。ハワイに来ることがあれば、ぜひいつでもご連絡下さい。
お久しぶりです。元気そうですね。^-^。ネットサーフィンをしていたらここに辿りつきました。改めて桑原先生の情熱に感動致しました。機会がありましたら、是非当院の若手にも先生の情熱を伝える機会があればと思います。体調に気を付けて頑張ってください!
鈴木広道先生
御返事が遅くなりました。お元気ですか?
鈴木先生にstep2CSの練習をしていただいたおかげで、やっとここまで来れました。
ぜひまたお会いしたいですね。please keep in touch
37歳でおっさんレジデントとおっしゃられてますが、、私は42歳で、また私の友人や知人では40代後半でスタートされた方々もおられます。みなさん今もアメリカでアカデミックもしくはプライベートプラクテイスで活躍されてます。がんばってください。
小宮武文先生
コメントありがとうございます。アメリカという国は日本に比べると、良くも悪くも懐が深く、確かに私たちのような40歳前後でレジデントをしている医師に少なからず会うことがあります。年齢を言い訳にしてはいけませんね。日々精進の限りです。激励ありがとうございます。ぜひ近くにお寄りの際にはお声をかけて下さい。