6年間のアメリカ生活を終え日本に帰ってきました。1年間の大学院生活と5年間の研修医生活。初めてあめいろぐに投稿させてもらったのが2011年であれから5年近く経ったと思うと不思議です。しりすぼみに投稿が少なくなり…今さらまた投稿するのは恥ずかしいですが、アメリカ生活を振り返って感じた事を書き出すことにします。主にアメリカ留学を今目指している若い方を想定して。
1. 自分の価値観を持つ
いきなりありきたりなコメントになってしまいました。が、やはりこれは譲れないポイントだと思うので。アメリカの東海岸と西海岸で暮らしてみて、住んでいる人々や診る患者の背景もがらっと変わり、同じ国とは思えない感覚を至るところで感じました。優秀な人も厳しく貧しい環境から抜け出せずにいる人も世界中から受け入れ続けているアメリカで仕事をして、「なぜ自分が存在するのか」というのをよく考えるようになりました。自分が他者との関係において相違を感じるからこそなおさらそう感じたのだと思います。いろいろな違いが共存している環境に身を置くと自分の存在が際立ってきて自分を見つめる良い機会になるのは間違いありません。
2. 楽観主義と悲観主義
個人的には悲観的な人間なので悲観主義バンザイなのですが、アメリカにいるといやでも楽観的に物事を捉えることに慣れる気がします。生まれ育った日本にいると自分と環境が馴染みすぎて自分でどうにか周りの環境をコントロールできると錯覚するのでしょうか。アメリカに外国人としているとどうしようもならない事が多すぎて、まぁどうにかなると楽観的に考える事が増えたような気がします。日本の当たり前はアメリカでの当たり前ではないかもしれないし、当然ウガンダにいた頃の当たり前も違いました。昨日の当たり前は明日の当たり前でないかもしれません。医療含めて全ての行いはその当たり前を大前提に成り立っているので(当然当たり前の事は普段意識する事がないのでこの大前提を忘れがちですが)、その変化する当たり前に柔軟な人間でありたいです。患者対応では最悪の事態を想定した上で行動しておく悲観主義はこれからも大事にしたいですが、個人の精神衛生としては楽観と悲観のバランスは欠かせないと思います。
3. やる
ちゃんとやる、行動する、は最低限。楽観主義と他力本願は違います。日本で初期研修をしながらアメリカの臨床留学にぼんやりと憧れていた頃はアメリカという環境に身を置けば勝手に自分は変わると思っていた部分はあったような気がしなくもないですが、別にアメリカが自分を変えてくれるわけではありません。アメリカにも怠け者の医者はたくさんいます。口が達者な人もたくさんいます。医者と学者も違います。自分の価値観に基づいてやるべき事をちゃんと実行に移す人間でありたいです。ただ、総じて日本人の勤勉さや日本人医師のモラルはアメリカでも誇れるレベルだと思います。
4. 総合性と専門性
世の中が細分化/専門化しすぎている事に危機感を覚えます。話しは飛躍しますが人を区別しすぎることはえてして差別につながる気がしますし、例えばイギリスがユーロから離脱するかもしれないという動きも国としての損得勘定はともかく一体感を損ないます。医学の分野でも専門性が他の専門科との差別化をはかる方向に強く働きすぎると、「自分はこれしかやらない」となり、大きな全体像を見る事への妨げになるのは明らかです。どんな個人も組織のなかで一つ一つの役割を果たしているのは医療でも当然でしょうが、アメリカで1人の患者カルテに5人も6人も(場合によっては10人以上?!)違う専門科からの医者がそれぞれ診療記録を残す現実は決して効率的とは思いません。それでも専門家が崇められる医『学』の世界。。。医者の姿はその環境に応じて大きく異なります。一見すると医者個人個人が自分自身の医者の定義/医者としての仕事の中身を決められるように錯覚しますが、実際はその置かれた環境に医者は定義されていると考えるべきです。ただその刻々と変化する環境作りには医者も患者も社会もそれぞれ貢献できるはずで、医者が医療の環境に踊らされないように医者個人も医療の全体像作りにもっと貢献しないといけないと思います。「参加型」というのは何をするにも組織が大きくなればなるほど難しいですが(国とか国連レベルとか)、自分がやりたい事(えてして日本やアメリカでは専門医としての仕事)を越えて、どうしたらもっと効率の良い総合的な医療を実現できるのか、医者一人一人が持つべき総合的/横断的能力を育て、維持し(1回学べばいいわけではありません。医者も人間なのである特定の事をし続ければそれが強化され、ある特定の事をしなくなると忘れます。)、活かす仕組みが必要だと思います。私個人としては、週のこの日は総合診療、この日は専門科診療とか研修医ほどでないにしても期間ごとにローテーションしながら仕事できたらいいのにと思います。そして専門科をまたいで学び合う仕組み(一緒に働くだけではなく、ゆくゆくはお互いが独立してできる事柄を増やせるような、「最低限」の下限を少しでもあげられるような仕組み)をもっと作らないと、医療費増、高齢化、少子化に歯止めがかからない日本はなおさら危機的状況に陥ると思います。
5. 医者人生は限られている
気づけば日本での臨床現場から離れて8年。若い頃はあまり考えなかったですが、海外で過ごしているうちに確実に残りの医者人生が減っている事に気付きます。他の職業と違い医者は人が目の前にいてなんぼの仕事。若い頃は自分が何を学びたいかというWhatが中心で進路を考えていた気がしますが、だんだんWhoが大事になってくるのを感じます。そのWhoによって個人が学ぶべきWhatは変わってくるからです。先の個人の価値観と関連して、「誰のために自分は仕事をすべきか」というのを海外で過ごしたからこそ考えられたとは思うのですが、その「誰」がもし目の前にいる患者ではなかった場合は皮肉にも自分の存在意義の矛盾に苦しむことになります。自分の研修/勉強として患者を診ることが、自分が定義したその「誰」を対象にしている状況がベストだと思います。Tele—medicine(遠隔医療)が一般的になってきているとはいえ、アメリカで医者人生を送る=日本での医者人生が減る、構図は明らかです。正直に言うと、こんなに世界中から医者が集まってくるアメリカで自分がそれでもアメリカで患者を診る意義は何なのか、もっと必要とされている地域があるのではないか、という問いは自分の場合は常にあったように思います。(アメリカにいる事にもっと明確かつ確固たる動機を持っている方々ともたくさんお会いした事実はここにも触れさせていただきます。)見込みが甘い私は、実際にアメリカで臨床研修を積むまでこの構図に気付きませんでした。臨床はサイエンスとしての医学とは違います。2番目とも関連して、日本で立派な臨床医になりたいなら日本で学ぶのが一番効率的です。サイエンスの普遍性は臨床医学には必ずしも当てはまらないからです。そしてさらに言うならば個人としての幸せを追求するか(俗な話でいえば給与がよく仕事量も適度でオンとオフがはっきりしているアメリカで医者をするとか)、医者の社会的責任をもっと考えるべきか、なかなか両者は一致しないものだと(だからこそ医者の地理的もしくは科ごとの不均等分布が生じるわけですが)、いつも陽気なカリフォルニアからじめじめした夏の日本に帰ってきて少し残念がる自分が頭の片隅にいるのも事実です。
6. 選ぶ
最終的には上記1-5を踏まえて個人として選択し続けることになるわけですが、自分自身のこれまでの選択が正しかったのか、間違っていたのか、今まで偉そうに書いておきながら正直自分でもよく分かりません。ウガンダで当たり前が違うこと(Social determinants of healthと関連して)を痛感し、それまでの医者としての教育がいかにそこに無力かを痛感しました。アメリカの公衆衛生大学院でその無力さを少しは補えるように勉強し、その後はアメリカのより系統的な医学教育の環境のもと、世界中から集まる医者と多様な背景を持つ患者を診ることができました。選択はむしろ道を広げるためにあると思ってこんな医者人生を送ってきて、どこで働くにも何かしら自分にやれる事はあるだろうという根拠のない度胸だけはついた気がします。ただ、そんな自分が何を生み出せるのか、自分の置かれた環境や組織に応じてその生み出されるものも変わってくると思うと、勉強や研修というレールに乗っかっていたアメリカを離れた今からのほうがむしろ選ぶ作業は難しくなるように感じています。『いろいろ経験して、で、だから何?』とならないよう、今後も意義のある選択をしていきたいと思います。
ということで今までの数年に及ぶ自己反省文の投稿を終わります。以前の自分と今の自分、この間ちゃんと筋が通っているといいのですが。。。少しでも目を通してくださった方、お恥ずかしい限りですがどうもありがとうございました。
“We can’t help everyone, but everyone can help someone.”
—Ronald Reagan
さて、自分にとっての“someone”は…
ご無沙汰しております。ウガンダで企画調査員をしていた杉林です。斎藤先生お帰りなさい。そしてお疲れ様でした。ウガンダでは斎藤くんと呼んでいましたっけ、今は斎藤先生と呼ばなくてはね。私が隊員だった20年前は、協力隊=ピッピーという認識が社会の半数を占めていたように思います(特に勝ち組とか言われる人ほど)。今は開発系とかカッコよく言って、JICAも東大出身が沢山いる人気就職先だとか。確かに隊員側にもヒッピー扱いされる要因が今なお無きにしも非ずで、任期終了後が大丈夫かと不安を感じる人もいました。そんな中、斎藤さんには一切の不安を感じませんでした。医者だからではなく、自分をしっかり持っておられたからだと思います。この人は、大衆に迎合せず、自分で思い悩み、納得して進む。なにか確固たる目標、壮大な夢(野望?)をお持ちなんだと、そしてきっと大業を成し遂げる人であろうと思っておりました(今も思っています)。ケニアへの派遣据え置き組に医師がいると聞いて、絶対ウガンダにほしいと引っ張ったものの、インターン出て間もないのに若いフランシスしか居ない僻地で…はじめは医師としてつぶれてしまうのではか?いやいや彼は強いからきっと乗り越えるはずなど、罪悪感と心配と期待が交差していました。さらに米国の臨床で5年、私などには想像できませんが、色んなことを吸収され、さぞかし大きく立派に成長されたことでしょうね。私が29歳で協力隊から帰ってきた時、弟に「ガーナの2年は得たかもしれないけど、日本での2年を失ったことを忘れないで」と言われました。私はその2年分長く生きてやる!と言い返したものです(笑)。確かに日本人医師の進路としては今はメジャーではないし、専門を極める医師経歴に寄り道厳禁かもしれません。しかし、私のささやかな人生の50歳になった今、「人生無駄はない」と老人たちがよくいう言葉に心からうなずくばかりです。1993年にガーナで結核薬の購入システムを調べるうち、世銀やIMFなどが絡み貧しい国は更に貧しく(vice versa)の世の中に絶望し国際保健から離れたものの、日々日本人患者の贅沢さに閉口していました。1999年世界中で重債務国の債務が免除された時はこんな時代が来るとは夢にも思わなかったと、即2000年にJICAに戻りました。しかし、2009年ウガンダを最後に国際保健から離れました。医療人としては遠泳を泳ぎ切った爽快感がありましたが、人間としては崩壊寸前でした。人との関わりが苦痛であらゆる人を遠ざけました。また、日本では両親が引退し弟が実家を継ぐなど世代交代があり私の帰る場所を作らなければならない時期に来ていました。日本に家を買い、父を見送り、基盤を整えたものの、今までの経歴が日本(関西)で必要とされず、調剤薬局をただ転々としました。そんな中、最近阪大病院から声がかかり、今は未来医療開発部で治験や臨床研究の被験者保護の国際関連の仕事をさせてもらっています。国際保健への熱い思いで突っ走った時代、今も天職だったと思います。未練たらたらですが、スタートが遅かったこともあり力及ばず。ウガンダ以降悶々としていましたが、50歳にしてようやく落ち着いた感があります。自分が天職だと思っている分野(選ぶ)と、人が評価する視点(選ばれる)は違うのかもしれません。過去の経験を評価してもらえる人に出会え本当にありがたい限りで、過大な期待に応えるべき奮闘中です。ウガンダがあったから今があり、今があるから明日があるのだと。オリンピックを見ていても、上り詰めた選手ですら後悔は多々あるのだろうけど、人生の選択が間違ってるわけではと思いますよ。きっと他の人が到底受けない仕事を、なんとかなるかと受ける馬鹿さ加減、いい加減さが協力隊の良さだと思っています。またお仕事でかかわることがあるかもね。その時はどうぞよろしくお願い致します。
杉林さん、
ご無沙汰しています。熱く、励まされるメッセージいただきありがとうございます。
長らくご様子を伺っていませんでしたが、
また大学で新しい物を世界に広げていくような仕事をなされていると聞き嬉しく思います。
きっと今までの国際保健の世界を少し離れて見てみる時間も必要だったということではないでしょうか。
そうですね、自分自身も良いか悪いかはともかく今までの選択に全く後悔していないのは間違いないです。
そしてウガンダに呼んでいただいて本当にありがとうございました。
日本やアメリカにいたら大して人の興味に引っかかりもしない、儲け話にもならない世界ですが、
見た人間にしか分からないものですし、一度関わった人間として今も細々連絡を取っています。
全然進歩がなくてダメダメなのですが。。。
それでも、新しい物に飛びつき続けられる贅沢な世界よりも、当たり前の事を当たり前に人が享受できるようにすることのほうが大事な
ウガンダのような世界と関わることが、自分には向いているのかなと思っています。
というかそういう運命だったのかなと思っています。周りの流行り廃りは今も全く気にならないですし、
その意味で自分の『馬鹿さ加減、いい加減さ』がいいように作用しているのも間違いないようです。
そうですね、またお仕事等機会があればよろしくお願いいたします。
お会いできるのを楽しみにしています。
斎藤 浩輝