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斎藤浩輝

ブログについて

どこに不時着陸するのか私自身全くわからないのですが日本含めて世の中に役に立てる人間であれるよう努力していけたらと思っています。どんな環境でも自分次第。アメリカでもいろいろ学んでいきたいです。特技:火起こし

斎藤浩輝

2005年新潟大卒。群星沖縄基幹型病院沖縄協同病院で初期研修修了後2008年から約2年青年海外協力隊員としてウガンダのど田舎県病院でボランティア。派遣終了後ボストンで公衆衛生学修士を取得(国際保健専攻)し、その後内科研修修了。現在はカリフォルニア州で感染症フェローとしてトレーニング中。

2014/03/21

ニッチな世界

患者を診る立場として、臨床医はその時その時で最善と「思われる」ケアを提供しようと努めます。その最善の選択は何がいいか議論するにあたって、医療従事者は“Evidence”(証拠)という言葉が大好きです。一方、ある患者にAという薬が効いたから次の患者にもと、臨床医個人としての経験“Experience”をもとに医療を提供するのはその対局としてよく捉えられます。ただ、今のご時世にこの経験に基づく帰納法的な考えでの臨床スタイルはそこまで主流とは言えません。一人の人間が世の中の事象を全て経験することは不可能ですし、その限られた経験から全てに真理を導き出すことは不可能でしょう。

結果として前者の“Evidence”の出番です。今の世界でそれが指し示すものは単純に言うと研究/論文です。研究に直接関わって“Evidence”を作ろうとする研究者も、その研究を解釈し実際の臨床現場に落とし込んで“Evidence based medicine”(EBM)を実践しようとする臨床医も、その“Evidence”に深く関わってくる“N”『エヌ』という言葉も大好きです。“N”とは何人の患者が対象として研究されたか、という数字を指す言葉ですが、「あの研究はエヌが小さいから信憑性はどうだろう?(= エビデンスは弱い?)」という風に使われます。まるで何千、何万と大きな“N”にアクセスできる研究(= リソースが豊富)が全てかのような風潮。では、“N”が小さくならざるを得ない世界ではどんな医療を提供できるのでしょう。

先日、ある皮膚科クリニックで研修する機会がありました。そこには数百万人に一人しか罹患しないような病気を持つ患者が訪れてきます。そこに一人、そんな「超」が付くくらい頻度の少ない病気を持つ患者達だけを何十年と診察し続けてきた医師がいます。初日、彼が来るまでの待ち時間に勉強しておくよう手渡された論文を見て驚きました。10数名の“N”で一流とされる医学雑誌に彼の論文が無数に載っていたからです。提供するケアは“tailor-made”と言われながら10名弱の患者を彼と一緒に診察した初日終了後、私がこの疾患群を専門にしていかないことを知っている彼は「君が医師として一生で診たかもしれないこの病気を持つ患者数よりも多くの患者を今日だけで診察し経験できたはずだよ、よかったね。」とさらっと言いました。 

プライマリーケア、平たく言えば多種多様な患者を包括的に医療現場の『最前線』で診ていこうとするスタイルとは全く真逆の彼のそれは、今まで専門性を敢えて避けるように医療に関わってきた私からすれば衝撃的でした。プライマリーケア、公衆衛生、功利主義的な考えではなかなか解釈できない世界だからです。しかし、同時にそこは間違いなく医療の『最前線』でした。彼に会うまで数年に渡り病いと闘い苦しんできた患者達はそこで彼に会い病気を克服し、揺るぎない医師−患者の信頼関係が存在していることを彼の診療をみていると感じることができました。 

彼にとって“Evidence”を作る、論文を書く理由は、自分の経験を世界に広めるため、です。驕りではなく、これら稀な疾患群を自分よりも多く経験している人はいないと思っていて、同じ病気で苦しんでいる人を助けようと思ったら論文を通して貢献することが一番と考えているからです。論文を読んだ医師が世界中から彼に相談の電話をかけてきますし、世界各地の学会に招待されて忙しい臨床/研究の合間に世界中を飛び回っています。

“Experience”が“Evidence”に直結する世界。 

それら“Evidence”としての論文は彼自身の患者も救います。例えば、保険会社と交渉する時。稀な病気を持つ患者に稀で高価な治療を保険でカバーしてもらうためには“Evidence”は正当かつ強力な手段です。このように、人並み以上にしっかりとした主張が必要な世界に身を置いてきた彼は、現在のアメリカの医療、ひいては民主主義に少なからず不満を抱いているようでした。

『本当の意味で患者のために仕事をし、医療に貢献したいと思ったら“Niche”(ニッチ)な世界を生きるんだ。』と彼は私にアドバイスをくれました。一般的な皮膚科医として仕事をしようと思ったらいつでもできる、Botox(顔のしわ取り等に使う薬)を提供するクリニックを開いて今以上の給料を簡単に手にすることもできる、しかしそれは私の生き方ではないと。

“Niche”、辞書を引けば「隙間」「適所」というような訳が出てきます。彼にとっての“Niche”はどちらの意味も兼ねるでしょう。医療が『隙間』だけで成り立っていないことは当然です。『隙間』が生じるには『隙間以外の大部分』が必要になるので。ただ少なくとも言えることは、“Niche”な世界をしっかり生き抜くには、安易な流れに乗るのではなくもっと強い信念/覚悟が必要だろうということです。その世界が結果として『隙間』であろうと『隙間以外の大部分』であろうと。さて、私にとっての“Niche”な世界とは? 

“The world is a great mirror. It reflects back to you what you are. If you are loving, if you are friendly, if you are helpful, the world will prove loving and friendly and helpful to you. The world is what you are.”

Thomas Dreier (1884-1976); Writer, businessman

4件のコメント

  1. 斎藤先生

    初めまして。ハワイ大学 小児科 桑原です。斎藤先生のブログ、私には縁がなかった領域であり、いつも楽しみにしております。私も以前、自分の専門性を求めるため、「niche」についていろいろ考えたことがありましたが、突き止めると結局は、患者はどこにでも存在しており、nicheの存在価値は患者のみならず、医師によっても決められているのでは、と最近、考えるようになりました。結局、プライマリーであっても、専門性が高い診療であっても、そこに患者は存在します。そして、数も両者、一定数存在します。Nicheを見続ける先生はそれはそれで尊敬するのですが、それと同時に多くの数ある疾患を見続ける医師も存在価値がありますよね。要はバランスかと。大事なのは、専門医の尊重ももちろんですが、数多いプライマリーの疾患を見続ける医師が疲弊せず、刺激を定期的に受けつつ、社会に貢献できるプログラムが日本にもっとあればいいなと思いました。

    • 桑原先生、

      メッセージありがとうございます。
      本当におっしゃる通りだと思います。

      長々しくなるので書きませんでしたが(実際いつも長々しくてすみません)、私が今回お世話になった医師の診療スタイルも
      結局は『隙間以外の大部分』に活躍する医師がいるからこそ成り立つのだと私も思っています。
      お互いがお互いを支え合っている構図には違いないと思います。
      彼の場合も決してプライマリーで活躍する人達を否定してはいません。
      単純に、自分の専門医としての仕事に誇りを持っている感じでしょうか。(それが決して華やかな分野でないにしても)

      今回彼に刺激を受けたのはその専門性の高さにというよりは彼のプロフェッショナルな意識のほうだと思います。
      プライマリーであろうといわゆる専門領域であろうと自分の『適所』でそこを極め、それが実際患者に還っていく。
      それが徹底されているようでした。

      医師の個人としての選択の自由(地理的選択、専門の選択、ライフスタイルの選択 etc.)と医師の社会的存在意義/責任とのバランスを頭に入れながら
      その『適所』を考える時に、特に前者は移ろいやすい。残念ながら私も凡人です。。。
      そんな私にとっては彼の医師としての姿勢はとても一貫していて襟を正す思いでした。

      斎藤 浩輝

  2. 斎藤浩輝先生

    いえいえ、私も自分の適所を考えつつ、前者で日々、移ろいでいます。。。フェロー志望科すらまだ決まっておりません。こちらこそ斎藤先生の御返事を、気持ちをひきしめる思いで拝見いたしました。またぜひ近況を楽しみにしております。

    桑原功光 ハワイ大学 小児科

    • 桑原先生、

      ありがとうございます。
      こちらこそ今後もどうぞよろしくお願いします。

      斎藤 浩輝

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