(この記事は2014年11月号(vol110)「ロハス・メディカル」 およびロバスト・ヘルスhttp://robust-health.jp/ に掲載されたものです。)
日本と米国の病院では、延命治療に関する対応が大きく違います。米国では、高齢になればなるほど、多くの方が”事前指示書”という形で、終末期の対応における自らの希望を事前に考え、書面にしています。
病院の側も、”入院中に亡くなりそうな人”や”死期が近い人”に限らず、すべての入院患者さんに、延命治療の希望の有無について確認することが一般的です。具体的には「入院中に心臓が止まる、呼吸が止まるなどした場合には、どのような治療を希望しますか?」と、単刀直入に尋ねます。入院中に何が起こるかは必ずしも予測できないため、若くて健康な人から重篤な疾患を持つ人まで、あらゆる患者さんに同じ質問をします。これが可能なのは、”自分に何かが起こった場合はどうしたいか”を考えることが、常識の一部になりつつあるためです。医療従事者にとっては、”何かが起こる”前に本人の希望を聴いておくことが、いざという時に強力な指針になるのです。
例えば、私が以前担当した80代の患者さんは、比較的軽症の肺炎で入院しました。独り暮らしで元気にしており、本人を含め誰もが”この入院中に死ぬかもしれない”とは思っていませんでした。しかし、抗生剤を始めても状態は悪化。さらに心不全を併発し、病棟で心肺停止。なんとか蘇生しますが、人工呼吸器につながれた状態で意識も戻りません。入院時に聴いておいた本人の意思にはこうありました。「心肺蘇生してもらいたいですが、管につながれた状態で長生きするのも、寝たきりで生きるのも嫌です。もし元のように元気になれないのであれば、自然の成り行きに任せてください」。また本人は、家族にも自分の意思を伝えていました。近しい家族と話し合い、人工呼吸器を中止して、喉の管も抜くことにしました。喉の管を抜いてから数時間後、本人は安らかに亡くなられていきました。
もし入院時に本人の意思を確認していなかったら、もし本人が自分の考えを事前に家族に伝えていなかったら、この方はどうなっていたでしょうか?現在の米国では多くの場合、最も近しい家族が”代理人”として、本人の性格や生き方を鑑み、本人に代わって延命治療の意思決定をすることが可能です。したがって、家族は本人の意思を推察し、喉の管を抜くという決断ができたかもしれません。一方で、現実的には”人工呼吸器を中止し管を抜く”という決断を下すのは非常に難しい場合があります。特に、本人が生前元気に過ごしていて、あっという間の出来事だった場合なおさらです。
個人的な経験になりますが、本人が生前に意思表示をしていなかったケースで、家族の決断によって人工呼吸器につながれたまま1年以上も、(見た目上は)意識なく過ごされている90代の患者さんを診たことがあります。医師である自分からは知る由もありませんが、それが本当に本人の望んでいた人生の終わり方だったのか、どうしても疑問に思ってしまいます。
人工呼吸器や心臓マッサージだけでなく、
胃瘻や中心静脈栄養などもどこまでやるかを考えさせられます。
つい何十年か前までは平均寿命が短かったので、長く生きることがみんなの願いでした。
「死」は誰にでも訪れる自然なものであるのに、
抗うように考えられているし、向き合いたくないものとして蓋をされ、、、。
その結果、家族でよく話さないままその状況を迎えたり、
家族のエゴや、お金の問題で(年金が支給されるまでは生きていてほしいとか。)
過剰な延命をしている人も少なくないように感じています。
死生観を根底から覆すくらいのインパクトがなければ、
変わっていかないような気がしつつ、
意思疎通のできない患者さんを目の前に、
「こうまでして生きることを望んでいるの?」
と声をかけたくなることもしばしばなナースです。