STAP論文問題に関して、これまでの報道やブログ、意見などを見るにつけ、大きな違和感を持っていました。その違和感の原因は、間違った設問の設定によるのではないかと考えています。「小保方さんを擁護する vs. 擁護しない」、「小保方さんが悪い vs. 理研が悪い」という断面で切り取られている論調をしばしば見かけますが、これらは諸処の問題に対する”個人の意見”の領域を出ません。このような領域ではどちらの意見が正しいということもなく、問題解決にはつながりそうにありません。また、「Nature論文の瑕疵は故意だった vs. 故意でなかった」という設問設定の仕方も、誰の言い分を”信じるか”に依拠するので、あまり意味がないと思います。
私なりの設問設定の仕方は以下の通りです。
1.STAP現象は存在するのか否か
2.Nature誌への論文は撤回されるべきか否か
3.小保方さんは理研の主任研究員を辞めるべきか否か
4.学術的な論文不正の発生を防ぐにはどうするべきか
それぞれに関して、以下に自分の意見をまとめておきます。
1.STAP現象は存在するのか否か
私には分かりません(当然ですが)。その存在を信じている人も、信じていない人もいますが、それはSTAP現象の存在の有無には影響を与えません。もし本当にあるのであれば、いつか(近いうちに?)誰かが再現可能な形で見つけるでしょう。もしないのであれば、見つかりません。それだけの話な気がします。STAP現象があると考える人の中には、今回の論文の事件がその存在をいかがわしくした、という意見もあるようですが、逆にこのような論争から新しい発見が促進されることもあるので、何とも言えないと思います。
2.Nature誌への論文は撤回されるべきか否か
学術論文は撤回の手続きが決まっています。一度発表された論文は、基本的に掲載誌、著者、および著者の所属する機関の責任下にあります。したがって、撤回するかどうかの判断は、以上の三者による決定事項になりますので、あまり他者の関与する余地はありません。Lancetに掲載されたWakefieldの論文(第三者からお金をもらって麻疹ワクチンと自閉症の関連をでっちあげ、麻疹ワクチンの接種率を下げ、麻疹にかかる子どもを増やした)と異なり、人々に健康被害を出したわけでもないので、通常の手続きに沿って判定されるべきものと考えます。
3.小保方さんは理研の主任研究員を辞めるべきか否か
小保方さんは、明らかに主任研究員に求められる技能(Job Skills)を持っていません。したがって、主任研究員という責任ある立場で研究を続けるべきではないでしょう。論文作成手法やデータ管理、研究倫理など、主任研究者に最低限必要とされる能力のうちのいくつかが欠落していますので、ここに議論の余地はあまりないと思います。これは、Nature論文の瑕疵の中に故意があったかどうかとは無関係の事実です。
このカテゴリ下に属する設問として、小保方さんは研究者を続けるべきか否か、というものがあるかと思いますが、これは小保方さん自身が決めることですので、他人にはあまり関与の余地はないと思います。論文作成手続きや研究倫理などを一から学び直すこともできますし、STAP現象の再現に興味のある研究室が、どこかにあるかもしれません。仕事や就職先が見つかるかどうかは、被雇用者と雇用主の間で決まるもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。
4.学術的な論文不正の発生を防ぐにはどうするべきか
これは難しいですが、一番重要な設問だと思います。まず、学術の世界は性善説に従って仕組みが整えられており、質の低い(もしくは悪質な)論文の出現を防ぐことはできません。また、これを性悪説に基づいた仕組みに整え直すべきとは考えません。というのも、性悪説に基づく仕組みでは手続きコストが膨大にかかり、かつ手続きに要する時間も非常に長くなるからです。現状のシステムを性悪説に基づいたものに変更しようとした場合、論文と共に元データを提出してもらい、論文に書かれた手法に基づき元データから論文の結果を再現できるか確認する必要があるでしょう。さらに元データに不正な変更が加えられていないかをチェックするために、元データは集計の段階から独立した第三者的なデータバンクに預け、データバンクにあるデータとの照合、及びデータ変更記録の追跡や確認などが必要になるでしょう。基礎研究の世界では、試料や検体の保存などに第三者機関を介入させるなど、さらに複雑な制度設計が必要になるかもしれません。
このように、性悪説に基づく制度設計は費用に見合った効果が得られない可能性が高いだけでなく、科学(医学)の進歩を阻害する可能性が高いです。不確実性の高い研究の世界では、コストが容認できるレベルで試行錯誤を繰り返すことのできる土壌が必要です。
ではどのような対応策が考えられるでしょうか。「研究倫理の教育の充実を」という意見に反対はしません(そして、日本ではその教育がまだ十分でないという意見にも賛成です)が、残念ながら教育・啓蒙による効果は限定的です。研究倫理教育が最も発達していると考えられる米国でさえ、研究不正や論文撤回が稀ではありません(最近減っているのかどうかは知りません)。事実ごく最近、ハーバード大学と提携する世界的に有名なBrigham and Women’s Hospitalに属する研究者について(STAP論文のバカンティ教授も同じ病院に属しています)、幹細胞研究に関する不正が明らかになり、Circulationというこれまた有名な学術誌から論文が撤回されました(Boston Globe参照)。
様々な啓蒙や教育、不正が見つかった場合の厳正な処罰にも関わらず、米国でも不正がなくならないのは、これが学術界の構造上の問題に起因しているからです。ほとんどの研究者は正しい手続きに沿って研究をしており、ほとんどの人は高い志を持って研究に取り組んでいますが、現在の研究業績を評価する構造は、残念ながら”不正確な手続きによる”研究の発生を助長しています。これが、”個人に原因や責任を帰結”することでは、この問題が解決不可能な理由です。
現時点で研究者の将来は、権威のある学術雑誌への論文の投稿数と、投稿した論文が他人の論文にどの程度引用されたかによって、ある程度決まります。これらがその研究者の実績として評価され、地位の高い研究職を得られる可能性が高まり、国やその他の機関から研究費を獲得できる確率が高まるからです。同じ質で同じ内容の論文を投稿したとしても、それが権威の高い学術誌に載るかどうかで、その論文が与えるインパクト、及び引用回数は変わります。というのも、”権威の高い学術誌に載る”という事実そのものが論文の質を担保すると考えられ、他の人が”引用すべき”論文と考える可能性が高まるからです。したがって研究者には、”権威の高い学術誌に載せる”ことに対する非常に強い動機が働きます。
私が考えるに、権威ある学術誌に対する高い付加価値(客観的および主観的価値を含む)は、論文の質そのものに対する価値判定を歪め、いびつな構造を作り出しているように思えます。このいびつな価値構造が、不正を加えてでも権威ある学術誌に受け入れられる論文を作る動機を与え、他の様々な要因(研究職の確保、出世欲、金銭欲、周囲の期待など)と相まって、一部の研究者がその罠に嵌っていくのではないかと考えられます。そのような学術誌に論文を載せる利益は、データに”多少の細かい修正”を加えたことがばれることのリスクを上回る、と解釈する人が出てきてしまうわけです。したがって、研究不正は誰もが嵌りうる構造上の罠だと考える方が、この問題の解決策を考える上では有効だと思います。
以上から、研究不正をなくす(減らす)ためには、”権威ある学術誌”に論文が掲載されるプロセスに何らかのシステム的な変更を加える必要があると考えられます。一つの方策は、数学界など一部ですでに試みられている完全なオープン化です。これは既存の”権威ある学術誌”に依存する学術界の体系を根本から覆すものです。このシステム内では、全ての(もしくは多くの)論文は誰もがアクセスできるクラウド的な媒体に投稿され、論文はその分野の専門家により自由に閲覧、評価されます。評価する人の信用度や実績などにより、その論文に付けられた”評価”の評価も一覧で表示できるような仕組みも作ることができるでしょう。多数の専門家による評価を生き残った論文が、質の高い論文と認知され、その著者の実績になります。学術誌の購読、掲載料などで作られた既存のビジネスモデルを破壊することになるので、研究者や研究機関にとっては大幅なコストの削減が見込まれます。一方で、膨大な数の論文を適切に選り分け、質の高い論文を見つけ出すのが難しくなるので、現状では”権威ある学術誌”がある程度担っている、論文のキュレーターのような役割がより重要になってくるでしょう。また、これほどの変化を学術界に起こすには大変な困難が伴うことが予想され、短期的に現実的な解決策かと言われると疑問です。
もう一つは、論文掲載の過程に”仮掲載(Pre-publication)”を設ける方法が考えられます。現在の論文審査は、学術誌の編集者と、3-4人のPeer Reviewerと呼ばれる専門家同士によって行われています。したがって、発表される前の論文は、多くて10人程度の人の目によってしかチェックされていません。また、彼らは論文の不正を見抜くことが仕事ではなく、論文が”正確な手続きによって実施”されたことを前提として論文を審査します。彼らが掲載に値すると判断すれば、論文は晴れて当該の学術誌に掲載されます。Pre-publicationは、掲載に値すると評価された論文について、掲載前段階を設け、その間により多くの人に審査を委ねるというものです。これは一般公開という形でもいいですし、当該学術誌に登録している審査員や研究者にのみ公開という形でもいいと思います。本掲載される前に、他の人の目も通してみて、おかしなところがないかチェックしてもらうわけです。ある意味、政府などが行うパブコメ(Public Comment)のような位置づけです。
自発的なシステムにすればコストは最小限で済むと思いますし、ライバル研究者たちは真剣に論文の詳細に目を通すはず(剽窃ソフトを通す人もいるでしょう)ですので、明らかな間違いや不正は検知されるでしょう。分かりにくい不正に関しても、その分野で専門性の高い人からの”疑義”が多数生じれば、それを危険な印(Red Flag)として、本掲載に踏み切る前に検証を行うことができるはずです。斬新かつ新規性の高い発見は、既成概念を覆すこともあり、それが多くの”疑義”につながる可能性は否定できません。しかし、その論文が与えうるインパクトが高ければ高いほど、本掲載前に審査を尽くす必要性は増すと考えてもよいと思います。Pre-publicationに辿りついた論文は、すでに”本掲載に値する”と編集者に認められているので、不正や深刻な間違いがない限りは、本掲載されるべきです。
ライバル研究者たちには明らかに利害の対立(Conflict of Interest)があるので(その論文が掲載されると大変悔しい、など)、できるだけ本掲載前の論文にケチをつけたくなるはずです。しかし、それを乗り越える必要があると考えれば、論文投稿者もケチをつけられないよう入念に準備をする必要がありますから、このシステムは論文の質の向上につながる可能性もあります。ライバル研究者からの批判的吟味(Critical Review)の偏りを考慮した上でシステムを設計することもできるでしょう。Pre-publicationに入った論文は、すでに本掲載がある程度約束されていますので、著作権もその時点で生じると考えられます。
このシステムは、”権威ある学術誌”が論文の価値体系に与える歪みを考えると、それらの学術誌が導入することに意義があると思います。むしろ、学術誌の経営体力や研究者間の一般的な興味を考えると、NatureやCirculationのような、その分野で最高峰とされる学術誌でしか導入できないシステムかもしれません。相次ぐ論文不正や撤回に対して、世界トップの頭脳集団である研究者たちが、有効な対策を講じられないはずがありません。私たちは、「研究倫理の教育の充実を」というありきたりのスローガンを唱えるだけでなく、実現可能な範囲でできる限り不正が生じにくいシステムを設計し、導入するべきではないでしょうか。