妻の友人が、かの有名なマイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう 』を読んでいたある休日の午後。そこに彼の奥さんが近寄ってきて一言。「なんで孫社長の話を読んでいるの?」「その正義(まさよし)じゃないよ!!」
その発想には脱帽しました。そうか、その手があったとは。まさよし。言われるまで思いつきませんでした。
この「正義(せいぎ)」の本、医療従事者はとても身近な内容と受け取った人も多いのではと思いますが、いかがでしょうか?というのも、本の中の事例でも出て来たように、医療の実際って倫理や正義(せいぎ)の話ばかりだからです。(一回「まさよし」と考えだすと、もう「正義」が孫社長にしか見えなくなってくるのは、僕だけでしょうか?)
例えば、臓器移植を受けられる順番はどう決めるのか?川名さんの記事にも出てきたように、お金を持っているかどうか(移植後にきちんと外来に来て高価な薬を飲めるかどうか)が、正式な機関の「公正」とされる評価基準の一つになっています。これって「正しい」のでしょうか?
何歳以上に乳がんのスクリーニング検査であるマンモグラフィーを実施するべきか、どこまで保険でカバーするか、それを日本のように自費診療とすべきか?命はお金では買えないと言うけれど、お金は無尽蔵にあるわけではない。ちょっと単純化しますが、50歳以上の女性全員にマンモグラフィーを実施したとして、対象者全体の(健康に生きられる)平均寿命を1年延ばすためにかかるコストが約40000ドル(約300万円)。(かなり無理やりな話の持っていき方なんですが、)自分の(他人の)寿命を1年延ばすために300万円払いますか?という話になるわけです。50歳で死ぬとして、それを5年延ばせるオプションが1500万円で提示されたら、どうするか?85歳で死ぬとして、同様の条件が提示されたらどうするか?1500万円でなく、1億円だったら?それを国民全体で負担するの?費用対効果分析と呼ばれる手法で語られることが多い話ですが、どれが「正しい」のか、どこに「公正さ」を求めるのか?
フィリピンから来た同僚の話。フィリピンでは公的保険制度はあるものの十分には機能しておらず、お金がないと病院で必要な治療を受けられないそうです。点滴や抗生物質が受けたければ、自分で(または家族が)薬局から買ってこないといけないと。それが保険でカバーされるかされないかは別として、点滴セットや薬を買うことができれば、それを病院で投与してもらえます。お金のある人はカバー範囲の広いプライベートの保険に加入していたり、自費で薬を買えたりします。これって「正しい」医療のあり方なのでしょうか?
熊田梨恵さんの書かれた『救児の人々』にあるように、500gで生まれた命を救うため、多額の医療費が費やされる。救えたとして、その後も多大な親の負担と多額の費用がかかる。これは「公正」なのでしょうか?そして「正しい」のでしょうか?
毎日のように人の健康や命を扱う医療分野だからこそ、そして「命に値札はつけられない」からこそ生じるジレンマがそこにはあります。保険会社では(基礎疾患や生涯賃金等々から)命に値段をつけて保険料を計算しているよ、命に値段がつけられないなんて甘ったれている、命の値段に差が生じるのはしょうがない。僕はこのような意見に反対です。数値化されない部分にある尊さに敬意を払うことが、医療の「正義(まさよし、ではない)」を語る際には必要だと思うのです。
資本主義的な考え方が米では強すぎて、正直ついていけません。この国では間違いなく、命のねだんはお金できまっていますね。
乳がんの検診の300万がだめならVADとかも保険でカバーされることがまちがっているように思われます。1年300万は高いのでしょうか?まったくそうはおもいません。まあこの値段の根拠はたぶんアメリカ独自のデータだとおもうのですが。。。
途上国ではそれでも仕方ないのだと思います。経済の発展段階上そもそも平等な社会を形成できないですし、特権階級がいい医療をうけられるという見せしめの意味もあるでしょうし。
生涯年収が2,3億のこどもに相当量のお金をつぎこんでもまったく悪いとはおもえないのです。500gのこどもに生まれてしまったのはまだ産婦人科のTechnologyが安全な出産に追いついていないのでしょう。小児科のTechnologyが負担をかけずに育てられるという理想に追いついていないのでしょう。
発展しない技術においては確かにそういう議論は生まれるかもしれませんが、技術は常に進歩していて、そのために今日の500gの赤ちゃんを救う必要があるのかもしれません。
また、どういう死なせ方をするかについては全く別の議論だと思いますが。