東日本大震災が起こってから、早くも一年が過ぎた。震災が起こったと知らされたのは3/11、金曜日の早朝だった。日本側の電話回線がダウンした中で携帯電話のSNSとスカイプが生きていており、家族が自分たちの無事を連絡してきてくれたのが、第一報だった。なんだか、大変なことが起きたらしい、と起きぬけの回らない頭で思いつつも、家族が無事ならそれでよし、と通常通りに出勤した。
朝一番のラウンドで誰かが私の家族は無事かと聞いたので、無事、との連絡があったと短く報告した。そのときにはすでに片耳にイヤフォンを付け、USTREAMのNHK放送を聴き始めていたと思う。何気なく除いたIPHONEのニュースでは気仙沼の火事のライブ映像やほんの数時間前の津波の映像などが流れており、あらためて事態の大きさを知ることとなった。次々と飛び込んでくるニュースに気もそぞろになり始めており、私はその日のチャージナース(主任?)に、今日の自分はあまり使い物にならないかもしれない、と個人的に伝えたが、クールなドイツ人ナースは、「今日は来ないかと思っていましたので、想定内です」と短く笑った。あまりの事態の大きさに、さすがのアメリカ人たちも気軽に声をかけられなかったらしい。そんな中で、私の隣に席を取り、声をかけてくれた二人の人物を今でも鮮明に思い出す。
「大変なことが起きたね。家族は無事? そう、良かった」
一人目は気のいいインド人麻酔科医。飄々とした風貌で、穏やかな人物。
「ニュースを見たよ。日本人はすごいね。こんな事態でもきちんと冷静に行動ができるなんて。とても感銘を受けたヨ。だってね、インド人なんか、平時にだってわーっと集まっちゃって、ぜんぜん列を作れないんだから!」
正直、微妙に面白くはなかったのだが、自分を落として相手を持ち上げる上等なジョークになんだか癒された。彼らしい、飄々とした物言いだったが、まなざしは優しく、心から心配してくれていることが良く分かった。
2人目は、普段、一度もまともに口を利いたこともない人物だった。
彼はジャニター、病院掃除夫だった。ここ数年、我々のエリアを担当するジャニターの彼は、物静かで、決して無駄口をたたかず、備品を恭しく扱う丁寧な仕事をする人物だった。こちらをまともにみることもなく、徹底して遠慮深い黒子のように振舞っていたので、Hi、と声をかけたことが1度か2度あるかないか、と言う程度のかかわりだった。英語を話すかどうかもそのときまで知らなかったし、名前も知らなかった。
そんな彼が、初めて私の隣に座り、初めてまともに私の目を見て、つたない英語で、でも、力強く、「I feel your pain.」 というのだ。
「I am from Haiti, we had tsunami,too. I am so sorry what happen to your country. But Japan is a strong country, not like Haiti, you can make it」
フレンチクリオール訛りの強い英語でそれだけを言うと、また視線を床に落として、彼は静かに私の隣から立ち上がり、掃除作業に戻っていった。衝撃を受けた。遠く離れた故郷の震災を聞く痛みを本当に理解しているのは、今まで口を利いたこともない、まともに視線を合わせたこともない、名前すら知らないジャニターただ一人であると言う孤独感。私はその日まで彼がハイチ出身だということすら知らなかった。興味がなかったのだ。彼の一個の人間としてのバックグラウンドを知らない、知ろうともしたこともない自分への羞恥心。その彼が、勇気を出して私の隣に座り、力強く声をかけてくれたのだ。言いようもない、強烈な衝撃だった。
彼は今でも我々のエリアを日に何度も掃除しに来るが、やはり、静かにうつむくだけで、あの日依頼、会話らしい会話を交わしたことはない。だが、あの時、彼だけが、自分の高ぶった気持ちを正しく理解し、そして、静かに声をかけてくれた。その彼を私は心から尊敬している。