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ブログについて

どこに不時着陸するのか私自身全くわからないのですが日本含めて世の中に役に立てる人間であれるよう努力していけたらと思っています。どんな環境でも自分次第。アメリカでもいろいろ学んでいきたいです。特技:火起こし

斎藤 浩輝

2005年新潟大卒。群星沖縄基幹型病院沖縄協同病院で初期研修修了後2008年から約2年青年海外協力隊員としてウガンダのど田舎県病院でボランティア。派遣終了後ボストンで公衆衛生学修士を取得(国際保健専攻)し、その後内科研修修了。現在はカリフォルニア州で感染症フェローとしてトレーニング中。

斎藤 浩輝のブログ
2013/03/31

医療従事者の価値観

 

先日、私の病院でのグランドラウンド(各専門家達が毎回招かれて行われる講演会のようなもの。アメリカの研修プログラムならどこでもあると思います。)に参加した時のこと。

 

その時のお題は集中治療室(ICU)でのケアに関する話しでした。そのなかで、DNR(Do Not Resuscitation、蘇生のための処置をしないこと)の指示があるかないかで、患者が亡くなる直前に心臓マッサージ、人工呼吸管理といった処置の行われる頻度が有意に異なる(例えばDNRの指示がもともとあった人は心臓マッサージを受ける頻度が少なかった)という、当たり前のようですが改めてデータとして提示されると興味深い研究を紹介されました。プレゼンをした教授が指導したICUで研修する医師のコメントとして「ICUに来る患者には2つのDしか行き先がない」という話しも紹介されました。つまりDeath(死)かDischarge(状態が改善してICUから退院、転送されること)か。そしてDischargeとなってから、社会復帰がどれくらいなされているか、どのような経過を患者がたどっていくか、という問題に関しても触れられました。

 

そんな話しを聞いて頭によぎるエピソードが一つありました。私がICU研修をしていた頃、アジア系の高齢男性が呼吸状態が悪いため入院してきました。もともと肺に慢性の病気を抱えており、一度人工呼吸器につなぐとおそらく一生それに頼りきりになることが予想され、アジア系ではないICUの主治医は、挿管(口にチューブを入れること)/人工呼吸器の処置そのものを行わない(アメリカではWithhold(=直訳すると「差し控える」)と言います)方向で患者家族に話しをすすめたのですが、患者の妻や家族は「何でも治療を施してほしい」と訴えます。最終的に、彼らの意向に沿うように患者は人工呼吸器につながれたもののそれから離脱することはできず、その後、慢性の呼吸器病棟とICUの入退院を彼は繰り返しました。患者さんは意思疎通もとれず人工呼吸器に頼りきりですが、家族は私達にいつも深々と頭をさげてお礼を伝えてきます。どのようなかたちで死を迎えるか、多様な人々によって構成されるアメリカにおいて人々(医師も患者も)の文化的背景の相違も含めて考えさせられたエピソードでした。

 

途上国でもICUのケアは時々話題にされるようです。医療資源が特に限られているなか、どこまで一人の患者に治療を施すか(=医療資源を費やすか)というのは非常に難しい問いかけです。以前も紹介しましたが、公衆衛生を“The art and science of deciding who dies, when, with what degree of misery”と表現した私の大学院の教授の言葉を思い出します。以前いたウガンダの病院ではICUという「集中的な」医療ケアを提供する病室はありませんでした。電気もままならない病院で人工呼吸器はそもそも現実的な医療機器ではありませんでした。一方で、一般の病室において私が患者を看取るという事もほとんどありませんでした。患者達は死期が近いと思われると、人目のつきにくい夜のうちに家族によって自宅に搬送されてしまうケースが多々ありました。つまり、病院は医療を提供する場ではあっても患者が亡くなっていく場ではありませんでした。それが彼らの文化なのだと理解しています。

 

つい先日、日本に一時帰国し私が研修医時代にお世話になった沖縄の病院を訪れる機会があったのですが、(勝手なイメージですが)他者とのつながりとして満員列車が象徴的な東京と、ゆっくりと静かな時間が流れる地元商店街を思い浮かべる沖縄(唯一戦時中に地上戦があった地域というのも大事な要素かもしれませんが)と、当然ながら死生観に関する傾向に地域差はあるのだろうと改めて感じました。

 

アメリカに今いるからこそ、日本で将来患者と関わる時にはなおさら彼らの価値観に目を向けていく必要があるように感じます。それは、アメリカで教科書や論文を読んでいたのでは身につけられるものではないでしょう。現場にいないとわからないもの。医療の世界でも「国際化」がどんなに叫ばれても、現場にいる人の違いからくる「地域性」という視点は免れないと思います。

 

話しは変わって、先日、ボストンの地下鉄にて。車内の広告に医学研究に関するものがありました。ソーダ、スポーツドリンク、フルーツポンチのどれかを継続して飲んでもらって体重や血圧等健康への影響を調査する研究で参加者を募っています。参加者には最大数万円の謝礼まで。研究元はかの有名なハーバード大学系の病院、そして広告が掲載されているのはお金持ちはそもそも乗らないとされる地下鉄内。率直に、もう少し有効な資源の使い方はないのか、考えてしまいました。

 

研究の答えの先にあるものは何なのか。医療のかたちは患者の価値観にも影響されると思いますが、どのように医学が進歩していくかというのも密接に関連していると思います。そこには、医師といった医学/医療に関わる人間の価値観が確実に反映されてきます。そもそも、患者を診るという行為自体がお互いの価値観が共有されるもしくは影響しあう行為ともいえます。医療に関わる人間1人1人の死生観を含めた価値観というのはアカデミックな世界からはほど遠いですが、医療が多様になればなるほど益々重要性を増してくるように思います。広く、深く、学ぶべきことは尽きないと思わされる、休暇時の一連の体験談でした。

 

文章を書いている今は、オランダはアムステルダムでウガンダへの乗り継ぎ飛行機待ちの最中です。選択研修の枠を利用して、ボストンにあるNGOがウガンダですすめる保健系プロジェクトのお手伝いをすることになりました。性懲りもなくウガンダに足を運ぶ機会を求め続けていますが、次回以降また何か皆さまにシェアできたらとも思います。よろしくお願いします。

 

 

 

『問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。(中略)物を考えている人間がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている。』 小林 秀雄

 

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