医療従事者へその道を目指したきっかけを質問する場合、「自身が病弱だった」「人助けが好き」など何かしらのストーリーをある程度期待し、聞き手も想定するものである。私もこの手の質問を度々受けるのだが『なぜ小児神経科医になったのか』自分でもよく答えがわからないのである。
幼い頃から、私は将来就きたい職業が定まらずにいた。旭川医科大学の医学部に入った後ですら、「自分は坊さんや小説家の方が向いているのかもしれない」と両親に話して、本当に惑わせたほどである。私は今でも定まった宗教観や信仰はないものの、大学生時代は行き場のない若きエネルギーが燃え立ち、当時は興味を示すものも多岐に渡っていた。
私は北海道砂川市で、生まれてから高校時期まで過ごした(高校は隣の市の滝川市立高等学校(当時)に通った)。中学3年生の始めの頃、私の人生を変える出会いがあった。「いわた書店」である。この書店は今や「NHKプロフェッショナル 仕事の流儀」を通じて全国区で有名になった書店だが、1980年代から90年前半の当時は身近にある地元の本屋であった。私はこの本屋で立ち読みするのが大好きであった(いわた書店の店長である岩田徹様、すみません)。
中学当時、いわた書店に行っては、漫画やパソコンの本しか立ち読みしないのに、なぜか手に取った本が「海外へのホームステイの本」であった。どうして、その本を手に取ったのか全く思い出せない。その本に惹かれて購入して、家に持って帰って読み、その夜に両親に「イギリスに行かせてほしい」といきなり頼んだのが、中学校3年生の春頃だったと記憶している。
私の父は高校を出ておらず、最終学歴は中学卒業である。戦後の日本の貧しさが父を高校に進学させることを許さなかった。母親も祖父が炭鉱事故で亡くなり、一旦は高校を辞めざるをえなく、後に高校に入り直して、準看護師から正看護師を経て、助産師まで資格を取った。私の家系で、私より年上で大学を卒業した方は誰もいないと聞いている。両親は自分たちの経験から、教育や学歴がいかに人生を左右するかを知っていた。今でこそ読んだ数の本は知能指数と関連すると言われているが、両親も経験的にそれを知っていたのか、もしくは単なる読書好きだったのか、我が家の2階の本棚には、両親が昔から本を読んでいた証として、数多くの本が残っている。
しかし、その両親もさすがに、息子が突拍子もなく海外にホームステイに行きたいと言い始めて面を食らったに違いない。当時の我が家の経済状況は苦しかっただろうにも関わらず、私はイギリスのフォークストンという港町に中学校時代の夏休みに3週間、ホームステイする恩恵を享受したことが、世界への視野が広がるきっかけとなった。私の「外の世界に一歩を踏み出す決断と勇気」は、父親と母親がこうして授けてくれた。
立場上、多くの日本人の臨床留学医師と出会うが、そうした方々が海外に来る理由の一番の理由はなんといっても好奇心、冒険心が大きいと感じることがしばしばある。私が今もアメリカで小児神経科をする理由のひとつは「私と同様に海外を目指す後輩がいたら、アメリカにいることで、私でも手を差し伸べることが何かできないだろうか。それが結果として、将来の小児医療の発展にも何らかの形でつながっていくはずだ」という信念があるからである。
未だに両親は、私のことを「あんなにぼーっとして本ばかり読んでいた子が、なぜアメリカまで行ってしまったのだろう」と今でも話しているようである。その本ばかり読んでいた私の息子たちのために、私の両親は今もいわた書店で漫画や図鑑などを購入して、こどもたちのためにアメリカまで送ってくれている。妻の両親も同様に息子たちのために尽くしてくれている。両家の両親やいわた書店を通じて、私たち家族は遠きにありても、日本とのつながりをひしひしと感じることができる。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
私は誓う。私も「日本と世界をつなぐ小児神経科医」として、北海道砂川市からいわた書店に次いで「NHKプロフェッショナル 仕事の流儀」にいつか出演する(本気)!
以上、まだまだ暑いアメリカ南部から、ルボーナー特派員がお伝えしました。