(この記事は、2013年7月16日に若手医師と医学生のための情報サイトCadetto.jp http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/cadetto/ に掲載されたものです。Cadetto.jpをご覧になるには会員登録が必要です。)
60歳代の男性の主訴に一瞬目を疑った。「牛に襲われて負傷」。闘牛士か?と思ったが、予想は外れた。メイヨークリニックは、言っては悪いが米国の田舎にある。「ロチェスターには、メイヨーとIBMしかないよね」とよく言われる。認めたくないが、あながちウソではない。その分、生活環境はとてもよい。「全米有数の高い教育水準と安全性で、誰も来たがらないが、一旦来てしまうと誰も去ろうとしない」。とも言われると一応フォローしておく。
農業に従事している人が多く、車で少し走ればトウモロコシ畑が広がる。馬や牛を飼っている人も多い。上記の男性は、家で飼っている牛の面倒を見ていたところ、牛が興奮し、逃げた背後から激突され、空中高く放り上げられてしまったらしい。一瞬気を失うもすぐに気を取り戻し、危うく上から踏まれそうになりながらも逃れたとのこと。聞くだけで恐ろしい話だ。
幸い軽症で済み、救急で頭部CTを取ったが異常なし、骨折もなかった。「幸運でしたね」とお互いに笑い合った。左側面から地面に落ちたらしく、左腕が痛く、力が入りにくい。診察すると、肩や背中に打撲の跡はあるが筋力低下や可動域制限はなく、問題なさそう。しかし、左腕を屈曲させようとすると痛みが強く、上腕二頭筋がぽっこりと出ている。「ポパイの腕(Popeye’s arm)」だ。
ポパイの腕は、上腕二頭筋長頭腱断裂により生じる。上腕二頭筋が短縮し、筋肉塊がより強調されるので、アニメのポパイの腕のような上腕になる。もちろん筋力が増強するわけではない。肘の屈曲抵抗運動で痛みが生じ、筋力低下がみられる。痛みは自然に消失することが多く、保存的な治療が一般的だ。筋力低下も、日常生活に影響を及ぼさない程度に収まることが多い。
この男性は清掃員として働いていたため、痛みが引くまでは仕事を休んでもらうことになった。2週間後に再診すると、既に痛みが引いてきており、仕事に復帰したいとのこと。まだ痛みも筋力低下も残っていたので少し気が引けたが、1日4時間程度、軽いものであれば持ち上げてもよいことにして、仕事を再開してもらった。さらに2週間後には、痛みもなく、筋力もほとんど元通りで、喜んで仕事に復帰していった。念のための再診では、全く問題なく仕事をしているようで、こちらも驚くほどの回復ぶりだった。
「今度牛に襲われたら、逃げずに止めてみせますよ」などと笑いながら話す彼の目は、若干本気だった。