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津田武

ブログについて

アメリカに住み始めて既に20年以上が経ちました。気がついてみたら、アメリカで生まれた4人の子供たちはすっかりアメリカ人として成長し、今年の秋には3人目が大学に入学します。今は、「日本」のことが恋しくてたまりません。趣味:テニス、サッカー、ジム、音楽鑑賞、読書(歴史物、特に日本の近・現代史)。尊敬する人:坂本龍馬。

津田武

信州大学卒業。フィラデルフィア小児病院にて小児科レジデント、循環器フェロー修了。その後基礎研究に従事。2004年よりAlfred I. duPont Hospital for ChildrenにてStaff Cardiologist とし、臨床と基礎研究に専念。米国財団野口医学研究所常務理事(医学教育担当)。

2012/03/04

共感(Empathy)

これも以前「ばんぶう」(日本医療企画)に掲載したエッセイです。今の小児病院にAttending(指導医)として働き始めて間もない頃の話です。「何故自分は医師を続けているのか」、という問いに初めて自分なりに答えることができた時の思い出です。

*  *  *  *  *

2003年のクリスマスを過ぎた年末の頃だったと記憶している。私の働いているAlfred I. duPont小児病院は、フィラデルフィア市内にあるThomas Jefferson 大学医学部小児科の基幹教育病院で、三次高度小児医療センターとしてデラウエア州を始め、周囲のニュージャージー州、中・南部ペンシルベニア州、メリーランド州からも紹介患者が送られてくる。その週の循環器病棟のAttending(病棟医長。我々は週毎にこの任を交代する)をしていた時、同じ階にあるPICU (Pediatric Intensive Care Unit集中治療室)からコンサルテーションの依頼があった。18歳のFriedreich Ataxiaの少年の末期心不全と心室性不整脈のコントロールに関するコンサルテーションであった。Friedreich Ataxiaは、常染色体劣勢遺伝の形態を持つ原因不明の(したがって治療法がない)小脳失調症のひとつであり、普通は10歳以前に発症し多くは進行性の心筋症cardiomyopathyによる心不全により死亡することが知られている。この患者も以前から何度も入退院を繰り返して来たが、最近はその間隔が狭まり4~5日前に始まった呼吸窮迫症状はあっと言う間に増悪し、病院のERについた時は気管内挿管して陽圧呼吸をしなければ正常血液ガスを保てないほど循環動態が悪化していた。と同時にDopamine, Dobutamine, Milrinone等の強心剤の持続点滴が始められていたが心機能の回復は認められず、逆に多源性心室頻拍が多発しlidocaine, amiodarone等の抗不整脈剤を投与するも著効なく、更に何度も電気ショック(cardioversion)を試みるも一時的な改善のみで最後には電気ショックも全く効かなくなった。心エコー(心臓超音波検査)では左心室腔は著名に拡張し収縮は殆ど認められず、中心静脈圧は著しく上昇し、まさに教科書どおりのEnd-stage heart failureを示していた。この不安定な重体の状態がもう2日も続いており、PICUの主治医の真の目的は(勿論彼らは決して口に出しては言わないが)私をして両親に治療の断念を促して欲しいとのことだろうとは容易に推測できた。

 

実に嫌な役回りである。概してアメリカでは徒に患者に苦痛を与えるだけの回復不能の延命治療は「是」とされない。主治医は最終的には治療継続の是非の判断をしなければならない。その重大な決断の妥当性を確認するためにありとあらゆる関連した専門科へのコンサルテーションがなされ、何度も繰り返し家族との話し合いが持たれる。私は先週の病棟Attendingとも連絡をとり、患者の病状の経過を確認した。私は一通りチャート、胸部X線写真、心電図、心エコーに目を通した後、患者を診察するためにPICUの個室に入っていった。部屋には患者以外誰もいなかった。患者は筋弛緩剤と鎮静剤を投与され完全な人工換気下にあった。異様に静かな中、不規則な心拍モニターの音が静寂を破っていた。血圧は一応低値で安定してはいたが、心電図モニターには心室性不整脈が頻発していた。手足を触れるとまだ暖かいが、尿量は減少し体全体に浮腫が目立ち始めている。壁にはまだ元気だったころの患者が4、5歳くらいの可愛らしい女の子と一緒に楽しそうに写っている写真が何枚か飾られていた。患者の妹だろうかと勝手に想像した。

 

診察後、私はPICUのAttendingをつかまえて私なりの見解を述べた。患者は、Friedreich Ataxiaによるend-stage heart failure (末期の心不全)の状態であり、現在辛うじて小康状態は保ってはいるが依然心機能は最悪であること。心室性不整脈の頻発は機能停止寸前の心筋細胞の断末魔の叫び様なものであってこれは心機能が改善しない限り消失しない。この病気の心機能改善のための根本的な治療法は存在しない。不整脈は治療しなければ心機能を更に増悪させるが、抗不整脈剤や電気ショック等の不整脈に対する治療自体もまた確実に心機能を低下させている。まさに「前門の虎、後門の狼」の状態。これまで考えられるあらゆる手を打ってきたが、現地点ではこれ以上打つ手はない、と正直に述べた。”Unfortunately, the patient is facing with a natural course of the disease”。

私の意見に対してPICUのAttendingも、

「”I agree”。 これ以上治療を続けても患者に苦痛を与えるばかりであり我々は治療の中止を考えている。申し訳けないけど患者の父親が来ているので、心臓の専門医の立場から父親にこの回復不可能な現状を話してくれないか?」と初めて本音を口にした。あらかじめ予想していたことなので私もそれほど驚かなかった。

 

PICUの中の応接室で私は患者の父親と会った。簡単に自己紹介をしたあと、患者の入院後の経過と現状を、先ほどPICUの主治医に話したのと同じように淡々と事実を述べた。患者は現在末期の心不全による重体であること、この遺伝疾患に対して現在の医学では根治のための治療法は知られていないこと、これだけの重厚な治療にも拘わらず病状に回復傾向が見られないこと、今後多臓器不全という形でますます病状は悪化するだろう、これ以上治療を続けることは徒らに息子さんの苦痛を増やすだけであろう、と私の見解を話した。父親は最後の勇気を振り絞って尋ねた。

「心臓移植の可能性はありませんか?」

「移植を待つだけの時間がもうないと思います。」

私の回答はあまりに現実的すぎた。その時父親は突然堪えきれず嗚咽を始めた。私にとっても辛い重苦しい時間であった。私は黙ったまま時の経過を待った。しばらく経ったあと父親がおもむろに口を開いた。

「先生、取り乱してしまって本当に申し訳ありません。ただ誤解して欲しくないのですが、私はこの息子のことで取り乱したのではありません。今回の入院の時にこの子の運命は私なりに既に受け入れたつもりでした。私が本当に悲しくてつらいのは、「兄の死」という現実をこの子の4歳の妹にどうやって説明していいのかわからないのです。先生、この4歳の妹も兄と全く同じ遺伝型(genotype)をもっているのですよ!もし彼女にお兄さんが死んだ理由を尋ねられたら、私は一体何と答えればいいのでしょうか? まだ幼いこの子に私はまだ彼女の未来を話してあげるだけの勇気が持てないのです。」

父親の眼から涙は止め処も無く溢れていた。私はふと病室に飾ってあった可愛らしい女の子の写真を思い出した。もし遺伝型が兄と同じであれば彼女も間違いなく同じくらいの年に発症し同じ自然経過を辿るだろう。

 

気が付いたら私は父親の両手をしっかりと握っていた。私の中にも何かこみ上げてくる熱いものがあり、自分自身それをどのようにして表現していいのかしばしわからなかった。一人の個人の「死」がもう一人の未来と可能性を束縛する。その宿命をもう一度見守っていかなければならない正常な両親。運命・自然の持つあまりの厳しさ、悲しさ、残酷さ。いつもながら医師としての無力感を痛切に感じる時間である。自分は医師としてこれまで一体何を学んできたというのか?「医学」はそれをもっとも必要とする人達に、いつもどうしてかくも冷淡なのか?それなのに、どうして私はまだ医師をやっているのか?勿論私は漫然と医師をやっているわけではない。良い医師になるためこれまで随分努力してきたし、これからも努力し続けたいを思っている。でも私はこの父親のために一体何ができるのだろうか?

 

それにしても何て勇気のある誠実で愛情溢れる父親なのであろうか。私は父親の毅然とした態度に深い感銘を受けた。私は、悲しいけれど何かとても美しくそして厳粛な光景に立ち会ったことを認識した。私は口を開いた。

「私にも4人の子どもがいます。」

私は次に続けるべき言葉を必死に模索したが、その言葉はすぐには見つからなかった。

「しかしこの子の病気はあなたの責任ではありません。私は医師としてはあなたの息子さんを助けるために何もしてあげることができませんが、それでもそれ以外に何か私にできることがあるでしょうか?」

「ありがとうございます。でも今のところ何もありません。ただ、家族や親戚のものが病院に到着までは延命のための治療を続けて欲しいのです。クリスマス休暇の後だからフライトの予約に時間がかかるかもしれませんけど。」

「承知しました。PICUの主治医の方には間違いなくそう伝えておきます。」

私は父親の眼を見ながら再び硬く握手をした。大きな暖かい手だった。今私に出来るたった一つのこの大切な約束を私は確実に守りたいと思った。部屋を出た後、ICUのAttending・レジデント・スタッフに父親の希望を伝えた。誰も反対しなかった。

 

それから2日後に患者は亡くなったと聞いた。正確に言うならば、2日後に延命のための治療が打ち切られたというべきであろう。患者は「自然」な状態に帰った。多くの家族・親戚に看取られた安らかな死であったと言う。その中に患者の妹がいたかどうかは知らない。ただ父親がこの48時間の間にどんな苦しみに苛まれたかは想像するに余りある。「親」であることはこんなにも大変なことなのだ。だから子どもを育てるということは、それだけ貴重で素晴らしい恩寵なのだということを改めて認識させてくれた。この人はこれほど厳しい現実に直面しても、最後まで「人」として「親」として正直にそして誠実に運命を受け入れようと努力していた。なんて勇気のある人なのだろうか。私自身、同じような立場に置かれたらどう行動できただろうか?人の親として、医師として貴重なレッスンを学んだのはむしろ私の方であった。私達が医師として患者さんに出来ることは残念ながら非常に限られている。「医学」は、最もそれを必要としている人に対して、しばしば最も無力である。それでも私はやはり医師であることを辞めない。「医師」という職業は、しばしば人間のもつ最も崇高な輝く姿に遭遇することがあり、それを学ぶことの出来る稀有なる特権を有している。生きるための真摯な想い、全ての運命を受け入れる勇気と寛容さ、そんな状態になりながらもなお且つ他人を思いやる優しさ。医師として私はそんな「生命が輝く瞬間」の厳粛な証人Witnessにならなければならないと思っている。そして私が学んだその感動を、私は皆に伝えたいと思う。キリストの使徒達が証人(あかしびと)として福音書を記したように。

 

4件のコメント

  1. 例えば、自分が、「あなたはなぜ医師を続けているのですか?」と聞かれたら、なんと答えるか、考えてみました。正直、もう辞めたいな、つらいな、と思うことのほうが、多かったと思います。今日は、3月11日で、大地震と津波、そして原発事故から1年が経ちました。あの日の自分は、突然当直になり、悲惨なテレビの画像を見ながら、津田先生と町先生に、あわててメールしたことを、思い出しました。

    • まず最初に一年前の東日本大震災と津波で亡くなられた犠牲者の方々のご冥福をお祈りしたいと思います。
      張先生、「なぜ医師を続けるのか?」という問いに対して、初めて自分なりの回答が得られたのは、私が医師になってから20年近くなってからだと思います。長い間問い続けて、ある時ようやく見つけた自分なりの回答です。今でも臨床と基礎研究の両立に悩むことがあり、どちらかをやめてしまいたいと思うことが少なくありません。しかし自分が「臨床家」としてのIdentityを持ち続けている限り、基礎研究は続けられると思っています。「自分は今何故アメリカにいるのか?」という質問も同じです。長い間思い悩んでいた疑問も、ごく普通の日常の出来事から分かってくることがあります。これは、不思議なことだと思います。”Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you”.(Matthew 7:7)は、今でも私の大切な座右の銘です。

  2. お久しぶりです。ブログ、初めて楽しく拝見しました。これまでいろんな患者さんとつきあってきて、先生のお気持ちに共感する部分が多くあります。またゆっくり話したいですね。先日、40年ぶりに浅井 由彦先生にお会いする機会を得ました。先生の変わらぬお元気な姿を拝見し、元気づけられました。先生からの連絡を欲しがっておられましたので、またご連絡下さい。

    • 高尾先生、コメントありがとうございます。本当にお久しぶりです。7~8年前でしたか、一度京都まで招待された時に大阪まで足を延ばして先生に会いました。あの懐かしい庄内へ行き、六中から昔住んでいた家のあたりまで歩いてみました。今度関西に行くことがあれば必ず連絡します。

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