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斎藤浩輝

ブログについて

どこに不時着陸するのか私自身全くわからないのですが日本含めて世の中に役に立てる人間であれるよう努力していけたらと思っています。どんな環境でも自分次第。アメリカでもいろいろ学んでいきたいです。特技:火起こし

斎藤浩輝

2005年新潟大卒。群星沖縄基幹型病院沖縄協同病院で初期研修修了後2008年から約2年青年海外協力隊員としてウガンダのど田舎県病院でボランティア。派遣終了後ボストンで公衆衛生学修士を取得(国際保健専攻)し、その後内科研修修了。現在はカリフォルニア州で感染症フェローとしてトレーニング中。

2012/11/25

AMA

皆さんはAMA(「エー・エム・エー」)と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。
私の病院ではAmerican Medical AssociationではなくAgainst Medical Adviceという意味で使われる事が圧倒的に多いです。

こちらで仕事を始めた当初良く分からなかった英語の一つでしたが、要するに「医療従事者側からのアドバイス/推奨にも反して」という意味で、通常は患者が退院していく時とセットで使われています。 “The patient left AMA.” – 患者が我々医療従事者が継続して入院したほうがいいと推奨したにも関わらず自己判断で退院していった、という意味です。

先日、ICUで人工呼吸器から離脱したばかりの患者さんがAMAで病院を退院していきました。そしてものの30分後くらいには救急室を通してICUに「再入院」してきました。事の詳細はこうです。その夜私はICUの当直中で、当直室にいると看護師から呼ばれて患者と話しをしてほしいと頼まれました。AMAで患者が帰りたがっていると。ICUに行ってみると挿管チューブが取れたばかりの患者さんが看護師達にわめきちらしています。患者はアルコール中毒から誤嚥性肺炎を起こしてしばらく人工呼吸器で治療を受けていました。鎮静がとれて呼吸器が取れるなり治療を拒む患者に看護師達は手を焼き私が呼ばれたというわけです。意識ははっきりしていましたが肺炎のため当然まだまだ治療が必要な状況です。いざ私が患者と話して時間を費やすと患者は少しは納得した様子でもう少しICUに残って治療を継続すると言います。看護師達には患者も納得していたよと伝えその場を去りました。しかしその数十分後には再度看護師から呼ばれ、やはりどうしようもないから患者にAMA用の用紙にサインしてもらってくれと言われました。ICUに戻ってくるとベテラン看護師達に囲まれるように、この患者のケアをしようにもどうしようもないのだから治療継続するよう説得するのではなくさっさとAMAで帰ってもらえばいい、というような感じで言われました。何とも煮え切らない気持ちでしたが患者との次の会話では、酸素が常に必要な今の状況で病院を去るということは命の危険もあります、とリスクの話しを散々し、患者はAMAの用紙にサインし「医療従事者側からのアドバイスにも反して」病院を去っていきました。そして病院玄関を出るなり酸素もなく息苦しかった患者はそのまま救急室の受付まで歩いていき、間もなくして救急室の医師から私に電話、『お前の患者が戻ってきたよ』。

治安も良くないことで有名な地域にある私の病院で、このような患者さんとのやり取りは日常茶飯事です。ただ、AMA用紙を片手に患者にリスクを説明してサインをもらい、何事もなかったかのように去っていく彼らの後ろ姿を見るのは決して気持ちのいいものではありません。まるでAMAで病院を退院させるという行為自体が病院マネージメントの一部としてシステム化して、「面倒な」患者をケアしたがらない病院と(様々な理由があると思いますが)治療を継続したがらない患者との利害関係が一致した結果生まれた、都合のいい産物のようです。ただ、医療に関わる立場からすれば、これはある意味法的に正当化した責任逃れなのではないか・・・。

このAMAという言葉に関連していつも思い浮かぶ患者さんがいます。私がウガンダ時代に関わった患者さんのなかでも忘れられない患者さんの一人です。ある広域地域の基幹病院にその地域の母子保健の現状を学ばせてもらおうと滞在していた時期のある日、遠くのヘルスセンターから、帝王切開等緊急時のお産にも対応できるその病院の産科に20代の女性が搬送されてきました。お産を控えた女性の主訴は「赤ちゃんを産みたがらない」。すでに10人以上の子どもを産んでいる彼女は『私はこれ以上子どもはいらない!!』と大声で泣き散らしながら、陣痛がすでに始まっているにも関わらずお産のための姿勢をするのを拒否しています。私も助産師達の手伝いをしようと思いましたが、膝やももの辺りがまるで縄でぐるぐる巻きにされているかのようにもの凄い力で閉じられ、足を開くことすらできません。日本のように本当の緊急時には秒/分単位で物事が動く医療現場とは違いここはウガンダ、最終的にはその病院のインターン(前にも説明しましたがウガンダではインターンの求められる技量の一つは帝王切開を含む緊急時の外科手術です)がしばらくして到着、私も立ち会った手術場で帝王切開から産まれた赤ちゃんは息もせず、その後の蘇生も実りませんでした。

少子化の進む日本含む多くの先進国とは全く対照的に、生涯出生率が7人程度とされるウガンダで、責めるべきは当初の治療を拒否したこの母親でしょうか。これは彼女の自己責任の問題でしょうか。Millennium Development Goals(MDGs)でもTarget 5等でReproductive Healthが取り上げられていますが、そのなかでも不十分なFamily planningへの取り組みが度々指摘されています。この女性との出会いは、不幸なかたちで私にこの問題の重要性を強烈に突きつけることになりました。

改めて私の今の病院でのAMAに立ち返ると、問題の根底はAMAで去っていく患者達にあるのだろうか、と自問自答します。きっとそうではないはずだ、と思う反面、残念ながら今の私にはその根底にある問題を捉えきれているように感じられません。

ただ、これに関連して心配になる事象は、このような患者と関わらない専門科に意図的に今の若い医師達/将来の医師達は進んでいかないか、というものです。来年度からは異なる病院で違う科に進んでいく今の後輩医師達と話しをしていて、「AMAで去っていくような患者を診なくてすむからAという科を選んだ」というように、それぞれの科で診ることになる患者層がその科の志望動機の一つとしてそれなりの位置づけを占めているという話しを複数の後輩から聞いた時は正直驚きでした。悪性疾患の患者さんを主にケアすることになる科を将来の科として選んだ人に「だってがんは病気としてしっかり存在するだろう。それを患者も認識していて、受けるケアに対して感謝もしてくれる。一方で、今の僕らの仕事はそもそも存在しない何か、患者自身が認識していない病気のために相手からも感謝すらされず仕事をしているようだ。」と言われ、その主張はある意味的を得ているようにも思えてしまいます。

“Appreciate”という言葉がこういう会話をしているとよく使われます。患者に“I appreciate your work.” (私はあなたのしてくれた事を感謝しています)と言われない医師と言われる医師。同じ医師がそう言われる患者に出会える科に進みたいと思うのは人として至極当然の事です。個人レベルで非難される行為でも何でもありません。

ただ、AMAである意味で「面倒な」患者を病院から遠ざけるように、このような理由で医療を提供する場の人的バランスが崩れこのような患者を遠ざける医師が増えていってしまうとしたら・・・。何科が良い/悪い、何科の人材を増やすべき/減らすべきという議論ではなくこれは医療従事者と患者の両者にとって不幸な状況に思います。お互いの信頼関係が築きにくくなるだけのように感じられます。

最近、アメリカ大統領戦でオバマ政権が再選を果たしました。私の勝手な印象ではありますが、良い意味でも悪い意味でも個人が最優先されるアメリカ社会において、(もう一方の候補者と比べ)公共/公共善の要素を医療の場にも盛り込もうとしているようには思います。お互いがお互いに結びつきを感じ配慮する社会、問題を遠ざけるのではなく向き合い皆で議論していく社会をどうしたら実現できるのかなと小さな病院の小さな事象から思いを巡らせる今日この頃です。

“The struggle of today, is not altogether for today–it is for a vast future also”
– Abraham Lincoln

4件のコメント

  1. 小児科では殆どAMAに遭遇することはありませんが、AMAで他の病院を出てきて、私の勤務する病院に自力でやってきたというケースをきくことはあります。
    それも、地域によっていろいろあると思います。NYのブルックリンの病院では ”Elope”(脱走)したTeenagerがいました。
    AMAの書類にサインをするという行為がひとつの象徴になっていますが、患者医者関係の行き詰まり、というふうに捉えれば、何時の時代にもあった問題かと思います。昔の日本の病院でも脱走患者はよく聞く話だったと思います。そう考えると、AMAの書類が医療者側にもたらした影響というのは、なにか新しい意識の現れなんでしょうかね? 対立構造の象徴なんでしょうか?

    • 浅井先生、

      コメントありがとうございます。
      投稿の中では書きませんでしたが、先生のおっしゃる通り”Elope”する患者もどこの病院でもいると思います。不勉強ながら私はAgainst Medical AdviceやAMAという言葉がどこで使われ始めたかわからないのですが、AMA『エー・エム・エー』という略語がある事自体がそれだけAgainst Mecial Adviceで病院を離れていく行為が(少なくとも)アメリカの医療従事者のなかではよく認識された事象なのだろうと思います。日本や例えば投稿のなかで紹介したウガンダでこれに関連する俗称があるのか、ぱっとは思い浮かびません。

      ただ、私が感じるところとしては、『自分の事は自分で決める!』という患者の自主性が尊重される文化であるかどうかも関係しているように思います。一般的に個人主義が強いとされるアメリカ社会で、その自主性が過度になれば「自分勝手」と周りからはとらえられかねないのかなと危惧します。

      一方で、私が一番危惧するのは相手への無関心です。自分自身と相手との関連性を感じられにくくなればなるほど、
      相手の態度/行動が「自分勝手」に映ってくるのではないのか、と思ってしまいます。
      そういう意味でAMAは先生の仰る対立構造の象徴の前に、私にとっては人(患者)への無関心の現れのように感じることもあります。

      それをある意味で「こちらから押し付けるのではなく、個人を尊重しましたよ」というかたちで個人に重きを置くアメリカの社会背景を逆手にとって隠れ蓑のように都合よくAMAという言葉を使っていないか、疑問に思うことがあります。
      これは全く私の印象でしかないのですが。。。

      この『無関心』というキーワードを考えると、私は本当に患者やアメリカにいる人々、今いるアメリカ社会に無関心でないのか、
      特に大きなアメリカ社会の一人の小さな日本人という感覚でとらえた場合には私も決して人の事を言えないのかなと思ったりもしてしまいます。。。

      斎藤 浩輝

  2. 齋藤先生こんばんは。
    AMA、と聞くと私はレジデント1-2年目の頃の当直を思い浮かべてドキッとしてしまいます。
    AMAで退院や服薬、治療の拒否を希望している患者さんがいる場合”Capacity Assessment” (精神科的、または脳神経学的理由によって、医師からのリスクの説明を理解したうえで自分の医学的決断する能力が欠けているかかどうかの判断)をするために、精神科が呼ばれることが多いです。精神科の判断で、Capacity (決断能力)が「ある」、と判断されてそれをカルテに記録できれば、「快く」患者さんをAMAで退院させられると思う担当医(attending)の方も多いみたいです。「今すぐ来て!!」と言われて駆けつけるとアルコール中毒の患者さんが看護師の方々ともみあいになっていたりすることも多くて、まず警備員の方を呼だこともありました。96歳のおばあさんが入院中に高血圧、心疾患等持病の服薬を拒否しているので呼ばれて、お話ししてみると、痴呆症も鬱の症状もなく、内科医の先生からのリスクの説明も理解できたうえで、「自分はもう十分長生きしたから毎日たくさん薬を飲むのはもうやめにして気ままに暮らしたい」と言われて、悩んだこともありました。私がレジデントをしていた病院では、内科病棟のスタッフの方々も対応にお手上げになってしまうような患者さんがいると、精神科的既往の有無にかかわらず精神科が呼ばれることが多かったです。コンサルテーションリエゾン精神科医療のリエゾンの部分はまさにそれが仕事なんだと思いますが、先生のブログを拝見して、懐かしいような、ほろ苦い思い出がよみがえってきました。

    • 奥沢先生、

      コメントありがとうございます。
      確かに、このような状況で精神科医にヘルプをお願いする状況は多いように思います。
      “Capacity”があるかないかというのがAMAが認められるか否かというのと関連するのは頭では理解できるのですが、
      「患者の求めは一体何なのか」「患者の思いに応えられているのか」というまるで医学部生時代や研修医なりたての頃の
      素朴な疑問に改めて直面させられている気分になります。
      先生のおっしゃるリエゾン精神医学も、多様性のあるアメリカ医療ならなおさらもっと認知されるべき事なのでしょうね。

      斎藤 浩輝

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