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大阪出身の妻と2児の子育て奮闘中。子育ては最高の小児科学の教科書です。モットーは“think globally, act locally, and love your family”。小児科・神経学・医学教育を世界で学び、グローバルな視野を持つ後進を育成することが夢です。

桑原 功光

北海道出身。2001年旭川医科大学卒業。1年間の放射線科勤務の後に岸和田徳洲会病院で初期研修。都立清瀬小児病院、長野県立こども病院新生児科、在沖縄米国海軍病院、都立小児総合医療センターER/PICUと各地で研鑽。2012年-2015年にハワイ大学小児科レジデント修了。2015年-2018年にテネシー州メンフィスで小児神経フェロー修了。2018年7月より臨床神経生理学(小児てんかん)フェロー。日米両国の小児科専門医。

桑原 功光のブログ
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2018/11/26

渡邊雄太選手とこどもたちへのバトン

今回は医学や小児神経とはちょっと離れたお話しをしたいと思います。

私は昔から、他の人が選ばないような道を選ぶ傾向があったように思えます。確か7歳の誕生日(昭和57年)に両親に頼んで買ってもらったのが「100点コミック」という月刊漫画誌でした(当時連載されていた「忍者マン一平」はよく覚えています)。当時の小学生にとってマイナーな漫画雑誌であり、すぐに廃刊となりました(wikipediaによると1983年(昭和58年)に廃刊)。その後は、小学校の同級生はみんな「コロコロコミック」派だったにも関わらず、私は何を思ったのか「コミックボンボン」という月刊漫画誌を小学校時代、買い続けました。あの頃はコミックボンボンには「プラモ狂四郎」という看板漫画があったのですが、コロコロコミックに比べるとやはり読者層は非常に少なかったと記憶しています。でも私はなぜかコロコロコミックよりもコミックボンボンに魅かれて、小学校時代、ずっと読んでいました。後にコミックボンボンは廃刊して、2018年今は小学生の月刊漫画誌はコロコロコミックの一人勝ちが続いています。

話は変わりますが、霜月になったにも関わらず、アメリカでメンフィスが非常に熱いです。というのは、ついに田臥勇太選手から14年間待ちわびて、北米プロバスケットボール(NBA)に「渡邊雄太」選手がメンフィス・グリズリーズと2ウェイ契約(1軍と2軍の間)を得て、日本人選手としてメンフィスにやってきたからです! しかし、私は渡邊選手がメンフィスに来るまでバスケットボール自体に興味がありませんでした。

私は中学校3年生から高校卒業までは柔道、大学時代はアイスホッケーというマイナーなスポーツを選び、全くバスケットボールには縁のない日々を過ごしておりました。同級生が「週刊ジャンプ」で伝説となるバスケットボール漫画「スラムダンク」を毎週話題にしている当時、私が最も夢中だったのは「週刊サンデー」という、やはり他の同級生とはかなり外れた道を歩んでいました(その性格は、大学医局を辞めて、放射線科医から小児科医を選び、アメリカ臨床留学をして、小児神経科というマイナーな道を選び、アメリカ南部でマイナーなアイスホッケーをしている今にも通じています)。高校生だった平成3年から平成6年当時、週刊サンデーで何と言っても最も面白かったのは「帯をギュッとね!」という柔道漫画(通称「帯ギュ」)と「拳児」という中国武術をテーマとした漫画でした。この頃、ジャンプやマガジンでなく、サンデーが大好きな高校生というのはとてもマイノリティでした(サンデー関係者の方、すみません)。でも、週刊サンデーは本当に面白く、高校の授業中も隠れて読んでいました。

私が高校時代で嬉しかったことの一つは、高校3年生の時に北海道の空知地域で、私が所属していた柔道部が団体優勝して、全北海道大会に進んだことです(今と異なり、当時はまだ各高校に柔道部員が多かった時代でした)。私も団体戦レギュラーで胸が踊りました。しかし、試合から高校に戻ってきたら悲惨な現実が待っていました。誰も柔道部のことを話題にしないのです。それもそのはず。その年(平成5年)に私の高校バスケットボール部が同じく空知地区で優勝して全北海道大会に進んだからです。当時は漫画「スラムダンク」の全盛期。バスケットボール部は滝川高校内部で華々しく話題に出たにも関わらず、柔道部には誰も目を向けないのでした。「バスケットボール部 vs 柔道部」。はっきり言いましょう。柔道部員がいかに頑張っても、バスケットボール部員の華々しさには勝てません(苦笑)。その現実を知った高校時代でした。

そんな甘酢っぱい青春の思い出は差し置いて、メンフィスで渡邊雄太選手が大活躍されています。日本でも話題になりましたが、渡邊選手はプレシーズンのインディアナ・ペイサーズ戦でダンクシュートを決めただけでなく、3点差で負けていた残り6秒で、起死回生の同点3ポイントシュートを決めて、その試合で最も印象に残る選手となったのでした。私たちは「渡邊雄太選手が3ポイントシュートを決めた瞬間に会場全体がどよめきと歓声で包まれた」瞬間を、幸運にも試合会場で生で味わうことができた希少な日本人家族です。

https://www.youtube.com/watch?v=xLzRMbghcPo

今や私たち家族は渡邊選手の大ファンですし、日本を代表するサムライとして是非メンフィスで頑張ってほしいと日々応援しています。先日もメンフィス・ハッスル(メンフィス・グリズリーズの2軍)に出た渡邊選手を応援しに、プラカードを持って試合会場に行ったのですが、「大きすぎてダメ」と入口で言われて持って入れませんでした(怒)。日本人の皆さん、渡邊選手の応援看板を会場に持ち込むなら、プラカードではなく、小さく折りたたんで持って入れる紙もしくは布で作った方がいいですよ。

渡邊雄太選手の父親のお話によると、渡邊選手は小学生時代から、空き地にあったゴールリングで1000本のシュートが決まるまで、父親がずっと付き添って4時間、フリースローの練習をされたそうです。渡邊選手が日本人2人目のNBA選手としての初得点は、2018年10月27日のフェニックス・サンズ対戦時のフリースローでした。渡邊選手の父親は、渡邊選手がNBA選手としての初得点がフリースローだったことに「派手じゃなく、地味に2本のフリースローを決めたのが雄太らしい。小さい時から勝負を分けるのはフリースローだと言ってきた」とコメントされました。

この渡邊選手の父親のお話をお聞きして、私は高校時代に夢中になって読んでいた柔道漫画「帯をギュッとね!」を思い出しました。実はこの漫画で一番印象深くて今でも覚えているのは、漫画そのものではなくて、全30巻の話が全て終わった後での作者のあとがきです。作者である河合克敏氏が「父は講道館の四段を持っており、子どもたちに柔道を教えていた。 日本の柔道界は、こういった父たちのような、無名の柔道家たちによって支えられている」と語っていたことです。

私が幼かった頃の父親との思い出の一つに「ブルドーザー雪はね」があります。前回のあめいろぐにも書きましたが、私の父親は戦後の貧しさから高校に進むことができませんでした。でも、私と弟にとっては父親は車の整備士で自慢の父親でした。北海道の内陸は雪が深く積もります。車の整備士であった父親は仕事場から家の前までブルドーザーを運転してきて、家の前の雪かきをしてくれました。雪がとてつもなく積もった中、ブルドーザーがあっという間に降り積もった雪をかき分けるその光景は圧巻かつ爽快です。私はこどもながらに、自分の父親は特別な存在と感じたものです。

私自身が妻と二人の息子を子育てしている中で「親って何だろう」とふと考えることがあります。未だに答えは見つかりませんし、これからも子育てをしながら探していかなくてはいけない課題ですが、一つ感じるのは、親というのはこどもに何らかの「バトン」を渡していく存在なんだと思います。メンフィスでこどもたちと渡邊選手の試合を応援しに行って胸を熱くする時間を共有することも、いずれはこどもたちへのバトンの一部になるはずです。そんなことを感じつつ、また渡邊選手をこどもたちと応援しに行く予定です。

以上、渡邊選手の話題で盛り上がるメンフィスから、ルボーナー特派員がお伝えしました。

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