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斎藤浩輝

ブログについて

どこに不時着陸するのか私自身全くわからないのですが日本含めて世の中に役に立てる人間であれるよう努力していけたらと思っています。どんな環境でも自分次第。アメリカでもいろいろ学んでいきたいです。特技:火起こし

斎藤浩輝

2005年新潟大卒。群星沖縄基幹型病院沖縄協同病院で初期研修修了後2008年から約2年青年海外協力隊員としてウガンダのど田舎県病院でボランティア。派遣終了後ボストンで公衆衛生学修士を取得(国際保健専攻)し、その後内科研修修了。現在はカリフォルニア州で感染症フェローとしてトレーニング中。

今回は少し趣向を変えて私が以前いたウガンダでのボランティア時代の話しを紹介したいと思います。2008年、当時私は医師になって3、4年目でした。以前少しお話ししたように、もっといろいろな人々を知りたいという半分身勝手な思いから飛び込んだ世界、実際そこで生活して目の当たりにしたものがどれだけ私にとっての当たり前と違ったか、少しでも伝わればいいと思います。以下、当時友人向けに書いたものの一部をほぼそのまま載せてみます。

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私がウガンダに来て約3ヶ月(ウガンダがどこか、アフリカ大陸の赤道直下の国をたどっていけば見つかります。)、ケニア国境に接し人口26万人のブシアという県に来てからは約1月たちました。この県の中心から赤土の凸凹道を通って10キロほど南に下った村に県唯一の公立病院があります。そこに「エイズ対策員」として派遣されています。

今働いている病院は日本の援助で外来・入院病棟が増設され、5月末にヘルスセンターから県病院として格上げされました。稼働病床数は季節によりムラがありますが50~100床前後だと思います。他の設備としては、ハエが飛び交い固形石けんで手洗いをする手術室、マラリアチェックや血液型、Hb、一般検尿・検便ができる程度の検査室といったところでしょうか。その病院に医師は独り、2005年大学卒の若手医師フランシスだけです。

ここで最初に遭遇した衝撃の患者は帝王切開の妊婦&新生児。近くの別の私立病院の医師から携帯で応援を頼まれたフランシスに連れられその病院に行った時のことでした。妊婦が歩いて手術室に入室してきたと思ったら麻酔はケタミン等で静脈麻酔。麻酔下の妊婦は鼻カニューレから2Lの酸素を供給されているだけでモニターもなく、時々看護師が胸を聴診するだけです。妊婦/児の手術適応は何かわかりませんが、フランシスの手で取り上げられた児は当然泣きません。また、その児を誰が対応するのかあらかじめ決まっていたとは考えづらく、助産師なのか手術室の手伝いなのか、女性スタッフ独りしか手が空いていません。目の前には呼吸がとまったままで心拍数60回以下の新生児・・・。結果的に児は赤みをとりもどしたので一安心ですが、こんな状況にフランシスは何事もなかったかのような表情で手術を終え、スタッフもにこにこ笑顔。「これが日常」という感じが伝わってきて驚きでした。

その他、マラリアによる貧血で真っ青の小児、HIVと結核の感染合併患者等日本の市中病院で研修していた時とは全く違う人々が毎日病院を訪れてきます。子どもの発熱といえば鼻風邪以上にマラリアか下痢・嘔吐症、来院者は高齢者以上に妊婦、というのがウガンダの市中病院の姿です。疑問に感じていた方がいるかもしれませんが、当然これだけ多くの患者をフランシス独りで診れるわけがありません。ウガンダにはクリニカルオフィサーという診察や簡単な治療ができるスタッフがいて、実際には彼ら(私の病院では4人)が外来や病棟を大部分担当しています。手術や侵襲的な手技は医師しかできません。そのため、フランシスは病院の運営管理で忙しいなか、臨床的にはもっぱら日本でいう外科医的な仕事や重症患者(といっても私の病院には呼吸器や中心静脈ライン等は当然何もありません)との関わりが中心です。ウガンダは5年間の医学部での医学教育の後1年間の初期研修があり、フランシスは初期研修から手術を始めたようで、一定程度の緊急手術は初期研修中の義務として位置づけされているとのことです。

フランシスは「まずはジェネラリストになりたい。」と言います。フランシスの言う「ジェネラリスト」とは??直接尋ねていないのでわかりませんが、きっと以下のような姿も含まれていると思います。「緊急帝王切開のできるジェネラリスト」「お産のとれるジェネラリスト」「マラリアで瀕死の小児を救えるジェネラリスト」「エイズ患者を診れるジェネラリスト」・・・。では日本で言う「ジェネラリスト」とはどんな存在でしょう。日本でそれなりに各科興味を持って初期研修を終えたつもりでしたが、例えば外科的な面での独り立ちなどほど遠い私、当地の医療事情が変われば医師の役割も変わる、という当然の現実に直面せざるを得ません。
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今でもこの時の手術の光景ははっきりと覚えています。救急蘇生時にはエピネフリンという薬を使いますが、私はウガンダに滞在した2年弱の間にこの薬を使ったのはこの児に対してが最初で最後です。例えば、日本やアメリカでは当たり前な人工呼吸器があるわけでもなく、薬を使って心拍が持ち直したとしてその後はどうするか。。。「蘇生」という行為の意味合い自体が異なっていたように思います。また医師の役割という意味で、私と同じ年に医学部を卒業しながらこうまで違う医師に育つのかというフランシスの姿も印象的でした。もともと医師としての肩書きをなくしたとしてどこまでやれるかという思いで踏み入れたウガンダですが、そもそも最初から医師としても無力感だけを味わわされました。 私はただ単に私自身が機能できる社会で仕事をしていただけなのだなと痛感させられたように思います。現在私はアメリカで研修していますがアメリカでの研修(何科であれ)を先にしていたとしても恐らく同じように感じたと思います。ただ逆に言えば、その土地、その環境のなかでどれだけ貢献できる医師を育て上げるかが臨床教育の本質なのだとも思います。日本なら日本で、アメリカならアメリカで、ウガンダならウガンダで、まずはその場でしっかりと臨床できるようになることが大事だと。医療の国際化、医学教育の国際標準化とは言ってもどこまで標準化できるのか。個人的にはどこまで柔軟性をもたせるか、という方向から考えたほうがいいのかとも思います。

“Now is no time to think of what you do not have. Think of what you can do with what there is. ”
Ernest Hemingway (1899-1961)

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