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鈴木ありさ

ブログについて

UCLAならではの華やかさや、カウンティ病院の抱える影をご紹介できればと思います。

鈴木ありさ

Interventional Radiologist です。 トレーニング期間を含め、10年以上勤めたBostonのBWHと退職し、LAに移動してきました。

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三年前の震災時、私はそれなりに頑張った。素人にしては上手くやった方だろう。乳児もいたし、三ヶ月後には放射線科人生最大の山場であり、障壁でもあったアメリカ専門医試験の口頭試問が控えていたのだから。それでも、何かをやらずには居られない焦燥感があった。遠く離れた故国の惨劇を、100パーセント安全なアメリカからぬくぬくと眺めていた罪悪感からかもしれないが、最も大きかったのは医者であるのに、今回もまた何も出来ないのか、という悔しさだった。

医学生の時に阪神淡路大震災を関東から見た。包帯一つ巻くことも出来ない役立たずだった。徳洲会が一斉に資材と人材を積んだ救急車を神戸徳洲会病院に送り、そこを前線基地とする、いわゆるTMATの前身たる活動が展開されてゆく様を当時それを指揮していた立場であった親族から詳細に聞いていた。(それゆえ、東北の震災時にも同様の活動が行われると踏んで、ボストンのER医達に半分フライイング状態で現地にゆく意思があるかどうか聞くことが出来た) だが、立ち上がり始めた組織、それまでこの組織が経験したことのない規模の災害、プロフェッショナルの医療者達ですら戸惑っているのに、医学生ボランティアにしかすぎない私は、医療者としては行けなかった。私が実際に神戸に行ったは、春休み、自分の大学の某教室が送ったグループの一員としてだった。大阪、神戸と電車が進むにつれて変化していった街並みを見た衝撃は忘れない。

この「何も出来なかった」記憶は、ある種のトラウマとしてずっと私の中にくすぶっていたのだと思う。そのくすぶっていた火種が一気に弾けのが、三年前の震災だった。応募してきてくれたボランティア希望者の方々と電話やメールでインタビューしているうちに気がついたのは、実に多くの人が「阪神の時は……」と口にしていたことだ。実際に被災した方も多かったし、家族が負傷した方もいた。「あの時、私はまだ若く何もできなかった。だが、今、私は医療従事者として働いている。今こそ、あの時何もできなかったという思いを晴らしたい」こんな気持を持っていたのは私だけではなかったということが、とても心強かったし、私自身の支えになった。

今回、学生だった人、タイミングが合わず実際に何かアクションを起こすことができなかった人、それは特別罪悪感を持つことではないと思う。その気持こそが、次回の有事の際の「アクション」の原動力になるからだ。私自身、神戸の震災時にやり残した宿題をやっと片付けた気持ちだ。このバトンは次の世代に受け継がれるべきと思い、今回二度にわたって震災に関する記事を書こうと思い立った。

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